三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

広島安野の中国人受難者の追悼集会に参加して

2011年05月22日 | 紀州鉱山
 5月14日(土)に、広島の中国電力安野発電所に強制連行された中国人を追悼する集い「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」があり、参加してきました。
 安野に強制連行された中国人による西松建設に対する提訴は、広島高裁で勝訴判決が出たものの、最高裁で逆転敗訴し、そのあと裁判所の調停で西松建設と遺族の間で和解が成立し、遺族に2億5000万円の和解金が支払われました。この和解金で遺族に補償金の支払いと追悼碑の建立や追悼行事の費用が賄われることになり、「基金運営委員会」がつくられました。これまでに360人のうち連絡が取れた186名の遺族に補償金が支払われたとのことです。
 追悼碑の除幕式は2010年10月23日におこなわれ、このときに故地参観の第1回訪日団として中国から40名が参列しました。
 今回は第2回訪日団として30名の遺族および家族が訪日しましたが、これらのみなさんはほぼ全員が初来日だということです。今後は、毎年5月と10月に30名程度の遺族を招いて、5回で3年半にわたって現在判明しているすべての遺族を招待する計画だとのことでした。
 この日は、日本側の主催者や参加者も含め数十名が2台のバスに分乗して、広島市内から40キロほど離れた安野(現在は安芸太田町)に向かいました。

 安野の発電所の工事は西松建設が請け負い、1944年8月から日本の敗戦までに360名の中国人が河北省、山東省から連行され、発電所建設のための過酷な労働を強いられました。
 この発電所は太田川の上流からトンネルを掘ってそのトンネルに水を導いて高いところから落下させ発電するという方式で、一番の難工事の導水トンネルを掘る仕事を中国人がさせられたそうです。導水トンネルの掘削は、4箇所からそれぞれ左右に掘り進んでたがいに貫通させるという方式をとり、そのため掘り口になっている4つの地区に中国人の収容所が建てられました。それが坪野、津浪、加草、土居という地区です。

 この日は、まず安野発電所の追悼碑のある場所に行き、10時から追悼集会を行いました。
碑の前で、まず基金運営委員会や遺族の代表があいさつし、続いて安芸太田町、中国大阪総領事館などの来賓が挨拶し、最後に献花を全員で行いました。そのあと、発電所の一番上まで歩いて登り、説明を聞きました。
 それから近くの集会所で昼食を食べた後、当時の住人から証言を聞きました。地下足袋が壊れたはだしの中国人に地下足袋や水をあげたという話がありました。裁判ではこれらの地元民の証言が採用され、これが中国人の証言を裏付けるものとなって、二審の勝訴が得られたという話です。
 そのあと、バスで津浪、加草、土居の順番で回り、収容所の跡を見て、住民から当時の状況を聞きました。収容所の建物はバラックで、悪臭が漂い、ふとんも、着るものも、まったく不足していた。食べ物は小麦粉のまんとうが1回に2個、一日に3回出されただけで、野菜もおかずもまったくなかった。水を飲んで腹を膨らませた。最後はドングリの粉を食べた、といった話を聞きました。

 安野発電所にある碑には、正面に「安野中国人受難者之碑」と書かれ、その裏面に漢語と日本語で安野・中国人受難者及び遺族と西松建設株式会社の連名による以下のような碑文が刻まれています。

  第二次世界大戦末期、日本は労働力不足を補うため、1942年の閣議決定により約4万人の中国人を日本の各地に強制連行し苦役を強いた。広島県北部では、西松組(現・西松建設)が行った安野発電所建設工事で360人の中国人が苛酷な労役に従事させられ、原爆による被爆死も含め、29人が異郷で生命を失った。
  1993年以降、中国人受難者は被害の回復と人間の尊厳の復権を求め、日本の市民運動の協力を得て、西松建設に対して、事実認定と謝罪、後世の教育に資する記念碑の建立、しかるべき補償の三項目を要求した。以後、長期にわたる交渉と裁判を経て、2009年10月23日に、360人について和解が成立し、双方は新しい地歩を踏み出した。西松建設は、最高裁判決(2007年)の付言をふまえて、中国人受難者の要求と向き合い、企業としての歴史的責任を認識し、新生西松として生まれ変わる姿勢を明確にしたのである。
  太田川上流に位置し、土居から香草・津浪・坪野に至る長い導水トンネルをもつ安野発電所は、今も静かに電気を送りつづけている。こうした歴史を心に刻み、日中両国の子々孫々の友好を願ってこの碑を建立する。
      2010年10月23日
            安野・中国人受難者及び遺族
                   西松建設株式会社

 強制連行された360名の中国人全員の名前が、追悼碑の両側の石に刻まれており、遺族・家族の方々は自分の父親や祖父の名前を指でなぞって涙を流していました。少なくとも、氏名と人数が判明していることは、朝鮮人の場合と大きく異なっています。
 この安野でも、朝鮮人の労働者はいたようですが、その数や氏名、また犠牲になった朝鮮人の数や氏名はほとんどわかっていないようです。
 わたしたちが取り組んでいる熊野の紀州鉱山における朝鮮人労働者についても、就労者の氏名と人数、犠牲者の氏名の人数はきわめて不正確です。安野の朝鮮人労働者の強制連行と強制労働についても、中国人受難者と同様の調査が求められていると思います。
 この追悼のつどいでひとつ気になったのは、この集会に西松建設が会社として参列していないことでした。集いには、西松の会社からは誰も参加せず、代理人弁護士も出席予定でしたが、この弁護士も都合で出席しませんでした。運営委員会のほうは、そのことをとくに問題視する様子はありませんが、「企業としての歴史的責任」を果たす、というのであれば、西松建設は基金運営委員会にも参加して、追悼の活動にもっと積極的に取り組む姿勢が必要だと思うのですが、どうやら西松建設は和解金を支払っただけのようです。
 この中国人受難者之碑は、したがってここで強制労働をさせられた朝鮮人の追悼につながっていかなければならないと思うし、さらには西松建設がアジアの植民地支配と侵略戦争の過程で国外の各地でおこなった強制労働の犠牲者に対する追悼にもつながっていく必要があると思います。
 わたしたちは、紀州鉱山における朝鮮人の犠牲者を追悼する碑を建立するにあたって、つぎのような宣言文を朝鮮語と日本語で記しました。

  追悼碑建立宣言
  1940年から1945年までに、のべ1300人を超える朝鮮人が、紀州鉱山に強制連行され強制労働させられました。1940年以前にも、家族とともに紀州鉱山にきて働いていた朝鮮人がいました。
  これまで、わたしたちが知りえた紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は35人ですが、そのなかには、朝鮮の故郷から連行されて、わずか1か月後に命を失った人もいました。わたしたちは、その人たち一人ひとりを思う石をここに置きました。
  紀州鉱山で、1941年5月に、朝鮮人130人は、米穀の増配を要求してストライキをおこないました。1944年秋には、紀州鉱山の坑口に、「朝鮮民族は日本民族たるをよろこばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と、カンテラの火で焼きつけられてあったといいます。
  紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本占領下の海南島で、田独鉱山を経営していました。田独鉱山で強制労働させられた朝鮮人は、「朝鮮報国隊」として朝鮮各地の監獄から日本政府・日本軍・朝鮮総督府によって海南島に強制連行された人たちでした。海南島で亡くなった朝鮮人の数もその名も、まだわかっていません。
  田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難工紀念碑」には、「朝鮮・インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されています。
  1942年から石原産業は、フィリピンのカランバヤンガン鉱山、アンチケ鉱山、シパライ鉱山、ピラカピス鉱山などで、日本軍とともに資源略奪を開始し、多くのフィリピン人を強制的に働かせました。そのなかには、日本軍と戦って「捕虜」とされた人たちもいました。
  わたしたちは、この追悼碑をひとつの基点として、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさん、海南島で死んだ朝鮮人、そしてアジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人びとを追悼し、その歴史的責任を追究していきます。
      2010年3月
          紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
                   在日本大韓民国民団三重県地方本部
                   在日本朝鮮人総聯合会三重県本部
                   紀州鉱山の真実を明らかにする会

 この追悼碑建立宣言では、紀州鉱山の朝鮮人労働者がたんなる被害者であるだけでなく、日本企業による強制労働に抵抗し、自らの権利を守るために闘ったことを記しています。さらに紀州鉱山の強制労働は、同じ石原産業による海南島の田独鉱山におけるアジアの民衆に対する強制労働と密接につながっていること、フィリピンの各鉱山におけるフィリピン人の強制労働ともつながっていることを指摘しています。さらに日本軍によって海南島に連行された朝鮮人(「朝鮮報国隊」と呼ばれる)がいることも刻んでいます。紀州鉱山の追悼碑は、海南島の田独鉱山の紀念碑とひとつながりになって始めてその歴史的な意味が明らかになります。
 その意味で、安野の中国人受難者の碑も、安野の朝鮮人の受難者の調査や追悼、そしてアジアの強制労働の受難者の調査と追悼につながっていくべきものだと思います。
 西松建設は、日本占領下の海南島で、石碌鉱山や発電所建設に従事し、やはり多くのアジアの虐待し死に至らしめています。その意味で、西松建設の歴史的責任を安野の中国人にとどめていくことはできないと思うのです。
                                   斉藤日出治
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