三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「10年かかって、私たちは彼女たちに何をしてきたのか」

2011年05月11日 | 海南島
 ことし夏(8月21日、あるいは8月28日)に開催する海南島近現代史研究会第5回総会・第8回定例研究会で、海南島戦時性暴力被害訴訟弁護団の杉浦ひとみさんに報告してもらいます。
 『海南島近現代史研究』第2号・第3号に、杉浦ひとみさんの「最高裁判決をまえにして」、「判決直後の思い」、「戦いはまだ終わっていない」が掲載されています。
 『海南島近現代史研究』第2号・第3号(2011年2月10日発行、B5版216頁、定価1200円、送料 80円)の総目次は、このブログの2011年2月12日の「『海南島近現代史研究』第2号・第3号」、あるいは海南島近現代史研究会のウエブサイトを見てください。

 以下に、海南島近現代史研究会『会報』第2号に寄稿してもらった「10年かかって、私たちは彼女たちに何をしてきたのか」を、杉浦さんの同意を得て掲載します。
 海南島近現代史研究会『会報』第2号(2009年2月10日発行、B5版80ページ、定価600円、送料 80円)の総目次はこのブログの2009年6月08日の「海南島近現代史研究会『会報』第2号1」、あるいは海南島近現代史研究会のウエブサイトを見てください。

■10年かかって、私たちは彼女たちに何をしてきたのか
              「海南島戦時性暴力被害訴訟」弁護団 杉浦ひとみ
 海南島戦時性暴力事件について、日本国を被告に裁判を行っている弁護団の弁護士です。
 2001年に提訴し、現在控訴審が2008年12月25日に結審し、3月26日の判決を待つ状態です。
 私が、最初に被害女性たちと出合ったのは、提訴前ですから、すでに10年近く彼女たちと関わっていることになりますが、ここまで関わってきて、最近、私が慚愧に耐えない思いでいることがあります。このメッセージは懺悔であり、今後への提言です。
 それは、被害女性に対する事実の聞き取りについて、もっと早い時期に彼女たちの心に配慮をした保護の体勢を取るべきだったのではないかということです。
 当初、書物などで、いわゆる従軍慰安婦の概略だけを学んで彼女たちに会いました。すべて一から話してもらいました。またこちらの被害に対する認識も浅く、今思えば“強姦被害の程度の重いもの”くらいの理解でした。
 彼女たちは話し始め、必ず嗚咽するのですが、その悲しみ苦しみの深さも知らず、二重通訳の隔靴掻痒もあり、その後も何度も調査を繰り返し、同じことを何度も質問していました。
 彼女たちのその時の精神状態にも、通訳にも影響されるのでしょうか、裁判においては重要な日時、期間、場所などが、聴取するたびに微妙に違い、聞き取る私たちも疲労しました。
 でも、今思うと、私たちがやっていたのは、発掘された遺跡にいくつもの探険隊がルールも決めずに入り込み、それぞれが勝手に調査と称して手をつけて、遺跡を浸食していたのと同じではないか。遺跡を守る側がいて、一定の調査能力を備えることを条件にして、調査回数を限って調査を許す。そんな保護が必要だったように思います。
 彼女たちは、抵抗することもできずに、出合うたびに苦しい過去を思い起こさせられる苦痛に耐えてきていたのでしょう。

 10年かかって、私たちは彼女たちに何をしてきたのか。戦後補償を訴える意義はあると思いますが、結局戦中も、戦後も苦しい思いを強いてしまっただけではないか。裁判に勝つことの難しさを痛感しながら、自分が被害女性たちに対して何もできない無力感以上の罪悪感を感じます。
 せめて、被害調査にあたる際の何らかのルールづくりと、擁護者の設置などを提言しなければならないと思っています。
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