三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働 2

2011年05月14日 | 海南島史研究
■一、日本軍の海南島侵略と抗日闘争
 1939年1月17日に、天皇ヒロヒトと日本政府の大臣らは、海南島を軍事侵略することを最終決定した。2月10日未明、日本軍は、天皇ヒロヒトの命令で海南島侵略作戦を開始し、残虐な行為をくりかえし、数週間で海南島の沿岸地域を占領した。
 民衆が平和に暮らしていた海南島に、「ヒノマル」を掲げて突然侵入してきた日本軍は、人を殺し、村を焼き、コメ・水牛・鶏・椰子……を奪って食べた。
 日本軍は、海南島占領目的を「建設新中国復興大東亜」、「建設反共親日之楽土」などと宣伝した。当時、日本民衆のほとんどが侵略地域の拡大を支持した。
 日本の海南島占領目的は、「南方」侵略のための基地建設と資源略奪であった。
 1941年7月28日に日本軍は、日本の軍港としていた海南島の三亜港を出港して、ベトナムとカンボジアへの侵入を開始した。
 1941年12月1日、ヒロヒトらは、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定した。その3日後、12月4日、日本軍艦の船団が三亜港を出た。12月8日午前0時過ぎ、その軍艦が、マラヤのコタバルを奇襲砲撃し、日本軍上陸作戦が開始された。日本の爆撃機がパールハーバーを襲撃したのは、その3時間後であった。
 日本侵略軍に抗して、海南島の民衆は持久的に戦った。
 日本軍は、抗日軍の兵站を破壊しようとして、海南島内各地の村落を襲撃し、住民虐殺と略奪をくりかえした。しかし、日本軍は、海南島全域を占領することはできなかった。
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