三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島の「万人坑」 2

2011年05月08日 | 海南島史研究
 海南島には、「万人坑」が3か所にあります。
 わたしたちは、はじめて海南島に行った1998年6月に、その3か所を訪ねました。
 以下は、そのときの紀州鉱山の真実を明らかにする会の報告です。1998年10月に発行された『パトローネ』35号(写真の会パトローネ発行)に掲載されたものです。
                                    佐藤正人

■海南島1998年 夏
   田独万人坑・石碌万人坑・八所万人坑・「朝鮮村」

1、田独鉱山で
 ほぼ60年前の1939年2月、日本陸海軍が奇襲攻撃をして海南島を占領し、軍政をしいた。その半年後、8月に石原産業は、海南島南部(現、三亜市郊外)の田独鉱山を独占し、翌年7月から鉄鉱石を日本の八幡製鉄所に送りはじめた。
 このころから、石原産業は、三重県の紀州鉱山で朝鮮人を働かせていた。
 田独鉱山では、海南島の民衆だけでなく、上海、広州、厦門、汕頭などの中国本土と香港、台湾、朝鮮から連行された人々が酷使された。
 中国人民抗日戦争勝利50周年を紀念して政治協商会議三亜市委員会が編集し、1995年8月に発行した『三亜文史?日軍侵崖暴行実録』(「崖」は、海南島南部の現三亜,楽東県の沿海地域を指す)には、日本軍と石原産業が田独鉱山の鉄鉱石を略奪した6年間に、病死、餓死、殴殺、生き埋め、銃殺された労働者は1万人以上であった、と書かれている。
 今年6月下旬、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員3人が、田独鉱山でどんなことがおこなわれていたのかを調査するため、海南島にいった。

 【写真】田独鉱山跡(1998年6月)。露天掘りの跡に水がたまっている。

2、侵略戦争と強制連行・強制労働
 日本軍政下の海南島で、日本窒素は石碌鉄鉱山、三菱工業は那大錫鉱山と羊角嶺水晶鉱山、浅野セメントは抱坡嶺石灰山の資源の略奪を始めた。日本の植民地とされた中国東北部では、1932年から多くの中国人が、鉱山、発電所などで強制労働させられていたが、海南島でも、日本軍・日本企業は、中国人・朝鮮人・台湾人…を強制労働させた。
 それにもかかわらず、大蔵省管理局がだした『日本人の海外活動に関する歴史的調査(海南島編)』には、
  「諸会社団体は軍の援助の下に一九三九年より終戦の一九四五年に至る七年間に亘り、文字通り熱帯の暑熱と戦い、マラリヤ、赤痢、コレラ等恐るべき熱帯地特有の悪疫と戦ひ、更に奥地に蟠居する蕃族や共産匪賊と戦ひ、遂に二千年来中国政府及び島民が夢想だにしなかった程急速度に各種の近代的技術と資材に依る産業開発を実行した。
   ……七年間に生まれ変わった海南島が建設されたのである」
と書かれている。

3、海南島の万人坑
 万人坑は、日本支配下の鉱山で酷使され命を失わされた人々が重なって埋められている「墓地」あるいは大虐殺現場あるいは大処刑場であり、中国東北部の撫順炭坑、老頭溝炭坑、豊満ダム、大石橋マグネサイト鉱山、鶏西炭坑、鶴岡炭坑、北票炭坑、七道溝鉄鉱山、華北の大同炭坑、准南炭坑などにその跡が残されている。
 海南島には、田独鉱山、石碌鉱山や八所港などに万人坑がある。1958年に田独万人坑に 「日冠時期受迫害死亡工友紀念碑」が建てられた。石碌鉱山の鉄鉱石を日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造した。この工事でも多くの人命が奪われた。
 八所港の万人坑には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられた(「瓊」は海南島を意味する)。
 数万人がいのちを奪われた石碌鉱山には、1965年に「石碌鉄鉱死難鉱工紀念碑」が建てられた。
 万人坑は、日本ではつくられなかった。中国各地の万人坑は、その地での強制労働の苛酷さを示している。

 【写真】田独万人坑に1958年に建てられた「日冠時期受迫害死亡工友紀念碑」、後姿の人は、わたしたちを現場に案内してくださった羊杰臣氏。羊氏は、三亜地域での日本軍の残虐行為について長年調査している。
 【写真】政治協商会議三亜市委員会が発行した『日軍侵瓊暴行実録』の表紙と本文の一部。
 【写真】石碌鉱山の万人坑。
 【写真】石碌鉱山の万人坑の近くに建てられた「石碌鉄鉱死難砿工紀念碑」。
 【写真】石碌鉱山での日本軍、日本窒素、西松組などの行為をつたえる『昌江文史』第6輯(1977年1月)のの表紙と本文の一部。
 【写真】石碌鉱山を見下ろす丘の頂上に建てられた日本軍の望楼(政治協商会議昌江黎族自治県委員会文史工作室の趙志賢氏に案内していただいた)。
 【写真】八所港万人坑に1964年に建てられた「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」。
 【写真】「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」のそばに残されている建物(監獄として使われていたという)。

4、朝鮮村
 2006年05月28日 | 海南島田独鉱山は、三亜市東方の郊外にあるが、三亜市北方の郊外に、朝鮮村という名の黎族の村がある。そこで殺害され埋められた1000人以上といわれる朝鮮人を偲んで村人が、解放後に村名を変えたのだという。『日軍侵崖暴行実録』には、日本軍は朝鮮の「政治犯」1000人を現在の朝鮮村にあった収容所で殺害した、と書かれている。
 わたしたちは、海南島に着いた翌日、政治協商会議三亜市委員会の蔡文恵氏に案内されて、朝鮮村を訪れた。黎語を知る蔡氏の通訳によって、朝鮮人を木につるして日本人が虐殺したのを目撃した周亜細氏(83歳)から話を聞かせていただくこともできた。周亜細氏自身も日本兵によって左足に傷を負わされたという。
 日本に戻ってから、わたしたちは、防衛研究図書館で、『海南警備府戦時日誌』(全30冊)をふくめ、数十冊の資料を点検したが、この事実の関係資料をみつけることができなかった。だが、橋正図書館では、いくつかの資料を探しだすことができた。その資料には、1943年から1944年にかけて、朝鮮から全獄中者の約1割の人びとが「南方派遣報国隊」の名で海南島に強制連行され、強制労働させられたという事実が示されていた(「南方派遣報国隊」は、海南島では「朝鮮報国隊」とよばれたという)。
 さらにその後、わたしたちは韓国の記録保存所で、海南島に強制連行された獄中者に関する資料(名簿の一部など)を発見した。その名簿には、「治安維持法」違反の人も含まれていた。7月に、韓国KBS取材班が、海南島にいき、朝鮮村の虐殺現場のわずかな一部分を「発掘」し、7人の遺骸に対面した。取材班は遺骸を埋めもどし、祭祀をおこなった。
 KBSの取材班をつうじて、わたしたちは、「南方派遣報国隊」の隊員として海南島に強制連行され、虐待され、朝鮮人虐殺を目撃した人が、韓国慶尚南道の固城におられることを知った。この人によれば、いったん「京城刑務所」に集められてから海南島に強制連行された獄中者のなかには、マラリアなどで病死した人も多かったという。8月31日夜、KBSは、ドキュメンタリー「海南島に埋められた朝鮮のいのち」を放映した。これは、「朝鮮報国隊」にかんする多くの新しい情報を伝達するものであった(この番組制作に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の佐藤正人がコーディネイターとして参加した)。50年あまりがすぎたいま、ようやく海南島に朝鮮人獄中者が強制連行され命を奪われたという事実が、日本と韓国で明るみにだされようとしている。

 【写真】「朝鮮村」の風景。この近くの大地に、朝鮮人と思われる多くの遺骸が埋められている。
 【写真】右額に大きな傷を負わされている遺骸。
 【写真】「朝鮮村」に住む周亜細氏(左)とその夫の符亜参氏(86歳)。
 【写真】海南島に強制連行された朝鮮人獄中者の名簿、および朝鮮総督府法務局行刑課内治刑協会刊『治刑』1943年8月号の記事。

5、民衆の持久的な抵抗とたたかい
 日本軍は、海南島の各地の村々をくりかえし襲撃し、しばしば民衆を虐殺した。中国本土でおこなった犯罪(住民虐殺、婦女暴行、掠奪、軍隊性奴隷強要……)のすべてを、日本軍は、1939年2月以降、海南島でもおこなった。抗日軍と民衆は、持久的に重装備の日本軍と戦いぬいた。日本軍が海南島全域を占領・支配したことはなかった。1944年から、山岳部を中心に解放区が拡大していった(海南省政協文史資料委員会編『日軍侵瓊暴行実録』上下・続、海南出版社、1995年、1996年、参照)。

6、民衆のネットワークを
 強制連行された朝鮮人が紀州鉱山で働かされていた時期に、海南島の田独鉱山でなにがおこなわれていたかは、これまで日本では隠されていた。
 これから、田独鉄山やフィリピンのカランバヤンガン(ここでも石原産業は日本軍とともに資源と労働力と人命を奪っている)などでの強制労働の実態をその地域の民衆とともに、明らかにしていくなかで、強制連行・強制労働の現場であるアジア太平洋の各地と日本の各地をつなぐ民衆のきずなを強めていきたい。
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