三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働 6

2011年05月21日 | 海南島史研究
三、海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働
②、強制連行・強制労働
 1939年2月から1945年8月までの6年半の間に、占領下の海南島で、日本軍と日本企業によっていのちを奪われた犠牲者の数も、名まえも、ほとんどが明らかになっていない。日本の防衛研究所図書館が所蔵している『海南警備府戦時日誌』(月報)や『海南警備府戦闘詳報』では、海南島で日本軍が殺害した「敵」の数が、毎月数百人と記述されている。
 日本が占領し植民地とした台湾で日本軍警が殺害した人の数は、10万人に近い(あるいはそれ以上)と考えられるが、海南島での犠牲者の数もそれに近いと思われる。
日本占領下の海南島に強制連行されて、いのちを失わされた人も多い。石碌鉱山、八所港、石碌―八所間鉄道建設の現場で殺された人は、数万人であった(河野司編著『海南島石碌鉄山開発誌』石碌鉄山開発誌刊行会、1974年)。
 海南島に侵入した石原産業は、田独の鉄鉱石を、日本窒素は石碌の鉄鉱石を大規模に略奪した。
 日本占領下の海南島に入り込み、資源を略奪し、住民を虐待し、朝鮮や台湾、中国本土から連行した労働者を酷使した日本企業(日本窒素、三菱鉱業、西松組、石原産業、王子製紙など)は、なんら責任を負わず、いまも日本国内外で企業活動をつづけている。

 三亜市郊外の荔枝溝鎮南丁に、「朝鮮村」と呼ばれている地域がある。
 今回の共同調査の初日に、わたしたちは、「朝鮮村」から10キロほど北の紅花村で、陳亜娘さんに出会った。90歳をこえているという陳亜娘さんは、日本軍が村に入ってきたときの様子を、つぎのように話した。
  「日本人が来たときには、ここに住んでいた。2番目の弟が遊撃隊に入った。日本人が来て、共産党がどこにいるのかしきりに聞くので、恐くて山に逃げた。わたしたちはどこにいるのか知っているし、言わなければ日本軍は撲り、ひどいことをするので、逃げたのだ。日本軍は、娘を見れば、みんな捕まえていった。日本人が来ると、女は顔にどろを塗った。朝鮮人が道をつくったりする仕事をしているのを見た。人数は多かった。朝鮮人は、青い服を着ていた」。

 当時のことをよく知っている周亜時さんが、「朝鮮村」がある南丁で小学校教師をしている息子のところにいっている、と村人が教えてくれた。10月23日、周亜時さんを訪ねた。
 周亜時さん(90歳)は、日本人のもとで労働に苦しんでいた朝鮮人をよく記憶していた。
周亜時さんは、
  「黎族の人たちがおおぜい強制的に日本軍のもとで働かされた。
   わたしも働いた。一戸にひとり、出なくてはならなかった。
   わたしが住んでいた紅花で朝鮮人は、紅花山から石を切り出して運んだり、道を作ったりしていた。
   南丁でも、三亜飛行場でも朝鮮人をおおぜい見た。
   わたしが見た朝鮮人は、みんな青い服を来ていた。朝鮮人といっしょに仕事はしなかった。
   朝鮮人は、とても辛い思いをしているようだった。
   日本兵が大きな木に朝鮮人をつるして殺したという話しを聞いたことがある」
と話した。

 1958年4月に、田独鉱山の山麓に、犠牲者を追悼する“日寇時期受迫害死亡工友紀念碑”が、海南鉄礦田独礦区の労働者によって建てられた。
 2001年に、そのそばに、海南省人民政府と三亜市人民政府が、「田獨万人坑死難礦工紀念碑」を建てた。その碑文には、「朝鮮、印度、台湾、香港、および海南省各市県から連行されてきた労働者がここで虐待され労働させられて死んだ」と彫られている。
以下は、その碑文の全文である。
  「“田独万人坑”是一九三九年至一九四五年日寇奴役和殺害近万名礦工的罪悪遺址。在日寇掠奪田独鉄礦的六年中、一大批抓被自朝鮮、印度、台湾、香港等地和我省各市県的労工先后在這里被析磨和労役至死。現頌和水庫範囲就是当年掩埋死難工的地方。一九九〇年三亜市人民政府公布為市級文物保護単位、一九九四年海南省人民政府定為省級文物保護単位」。

 【写真】09 陳亜娘さん。
 【写真】10 周亞時さん。
 【写真】11 田獨鑛山の“万人坑” に新しく建てられた追悼碑。
         碑文に “朝鮮” の文字が見える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする