ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(143):綿のある風景(3)

2011-11-06 09:12:26 |  ・加古川市志方全般

 今日も志方町が登場しません。姫路藩の「綿の専売制」の話です。

木綿は藩の専売品に!

 Photo江戸時代の後期、姫路藩は73万両という膨大な負債に苦しんでいました。

 家老・河合道臣(後の寸翁)の仕事は、なによりもこの負債を少しでも減らすことでした。

 道臣は、姫路木綿を大坂の商人を通さず、江戸へ直接販売できないかと考えました。

 しかし、姫路藩は大坂商人から膨大な借金を重ねていました。

そのため、姫路藩は、大坂商人を通さないで自由な商業活動はできなかったのです。

 江戸は大消費地であり、姫路木綿は品質もよく大量の販売が見込まれました。

 しかし、多くの地元の木綿業者や藩の役人は、大坂商人を恐れて、不満を持ちつつもなかなか道臣の案に協力しませんでした。と、言うよりも協力できなかったのです。

江戸へ綿布の販路を求める

しかし、それを押して姫路藩は、江戸への綿(布)の販売をはじめました。

大坂の問屋筋は、さっそく反応しました。

 姫路藩への新たな借財への金利があがりました。

 道臣は、藩内の木綿業者に粘り強く協力を求めました。

 やがて、大坂商人に対する不満が出るようになりました。

 さらに、風は姫路藩に味方しました。

 十一代将軍・家斉には一妻二十妾(しょう)の間に、五十五人の子どもをもうけましたが、四十三人目の喜代姫が、姫路藩の忠学(ただひろ)との結婚の儀がなったのです。

 姫路藩は、徳川家と親戚になりました。

 姫路木綿を専売品として直接江戸へ卸す話は一気に進み、姫路藩の綿布の専売制度は軌道に乗りました。

 そして、志方も含めて加古川地域は、綿の一大産地となりました。

*『姫路藩・凍って寒からず(寺林峻)』(東洋経済新報社)参照

 写真:河合寸翁像(姫路神社)

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