綿のある風景(2)
今日の「綿のある風景」は(2)です。
志方地方の綿のある風景を描いてみたいのですが、史料がありません。そして先行研究もあまりないので、わかる範囲で、そして、想像を交えて描くことにします。
史料がなくて、先行研究がなくても志方地方では江戸時代の後期、綿は重要な作物であり、盛んに栽培されたことは間違いありません。
西志方の横大路には、かつて加古川市を代表する稲岡工業がありました。
この工場は、この地方の綿作の延長上にあった工場です。
それでは、志方の「綿のある風景」を探しに行きましょう。
本号と次号は姫路藩の綿作と専売制の話です。志方町は登場しません。
加古川地方の綿作は姫路綿の中心地
綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河伝えられたのが最初であるらしいのですが、その時は栽培技術が伴わず絶滅しました。
その後、綿作は、文禄の頃(1592~96)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も一大木綿産地になりました。
木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立った。
江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿も商品作物として栽培されるようになりました。
姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評を得ました。
この姫路木綿の原料は、加古川地方が主な産地であったことは案外知られていません。
*「玉川さらし」は、木綿商の天下原(あまがはら・加古川市東神吉町)の金川甚左衛門がつけた商標であり、玉川とは加古川のことです。
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