姫路藩の木綿の専売制度により、大いに利益をあげました。
これは厳しい専売制度ではなく緩やかな専売制度であったからこそ、下からの反対も少なく成功したといえます。
江戸で売る際の手数料は、取引高の1.5%を藩が手にするという控えめなものでした。
それでいて、姫路藩は天保初年にはほとんど借金をすることができました。
一橋領での木綿の専売制度
渋沢は、当初徳川慶喜から、一橋領で農兵を集める仕事を命じられますが、農村をめぐる間に、財政面に興味を持ち、いくつかの経済政策を考えるようになりました。
その一つが、播磨における木綿の専売制度でした。
印南郡にある一橋領では姫路藩なみに綿作・綿織物が展開していましたが、渋沢により慶応元年(1865)「姫路藩以上のものを・・・」と一橋領で綿の専売制を実施するようになりました。
一橋領の木綿預かりの札(切符)は、いつでも通貨にかえることができる信用ある貨幣として通用させたのです。
通貨の流通量を増やし、木綿の買いつけを盛んにさせました。
そして、農民からなるべく木綿を高く買い、大坂へ持って行ってなるべく安く売ることを始めました。
いちじ、姫路藩内でも一橋木綿預かり札(切符)が流通し、姫路藩から一橋領への木綿の流出がおこり、姫路藩の専売制度を動揺させるほどになりました。
しかし、すぐに江戸幕府は崩壊し、渋沢栄一の木綿の専売制度は幕を閉じることになりました。
*地図:一橋領(志方町東志方)
『花盛りの城下で』(姫路獨協大学播磨学研究会編)参照
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