稲岡商店②
日清戦争後の1896年(明治29)以降、タオルの販売が急増しています。
これは前回に述べたように、この時期、清(中国)への輸出が急増したためです。
この急増傾向は、その後も続き、日露戦争直後の1905年(明治38)には、販売量は前年と比較しても二倍近く伸びています。
しかし、この好調な輸出は、何時までも続きませんでした。
まず、日露戦争後の恐慌の影響を受けました。
そして何よりも、1915年(大正4)5月の「対華21か条の調印」後は、激しい日本商品の排斥運動により清国方面への輸出が危険な状態になったためです。
そのため、稲岡商店は、その後日本国内への販路開拓に方向転換していきます。
<対華21か条の要求>
第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパ諸国は、清国の支配に対して余裕をなくし、権益の放棄を余儀なくされました。
日本は中国に山東半島のドイツの権益を要求し、満州・モンゴルで権益を広げ、日本人を軍事・経済顧問として採用することなどを要求しました。
中国は大部を受け入れました。これを知った中国人は日本の商品を買わないなどの排日運動をはじめました。
*『加古川市史(第三巻)」参照
<お詫び>
綿畑を見学に行ったため、志方町の綿作について、軽い気持ちで報告しようと思いましたが、先行研究も少なく詳細を報告できなかったことをお詫びします。
史料が見つかった時、志方町の綿作の続きを書くことにします。
「綿のある風景」は、稲岡工業でいったん終わります。
現在、稲岡工業は経営難のため操業を終えました。
<蛇足>
以下、個人的なことで申し訳ありません。
戦死した父は、稲岡工業で働いていました。そして、私の名前を「ひろかず」とつけ、漢字を迷っていた時、工場の社員さんが「博一」がいいと薦めてくれ決めたそうです。
そんな工場が操業をおえました。
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