ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(100)・「志方町を歩く」が100号になりました

2011-09-18 12:00:13 |  ・加古川市志方全般

 「志方町を歩く」は、きょうのブログで100号になりました。

「稲美町探訪」が100号になった時、下記のように書いています。

以下の文の「稲美町」を「志方町」に置き換えてお読みください。

 志方町も同じようになりそうです。

 <「稲美町探訪(100号)より>

    200号になったら! 500号になったら!

A9369e0c200号になったら、おそらく他人に稲美町のことを話たくなっているだろう」と想像します。

300号になったら、いっぱしの専門家面をして稲美町についての話をだれかに押し付けている」かもしれません。

400号になったら、もう忘れてしまいましたが恋人のように稲美町が愛おしくなっている」かもしれません。

「もし、500号になったら、きっと分からない古文書等と格闘しながら、誰も知らない稲美町を調べている」と確信します。

でも、まだ100号です。

<「稲美町探訪(500号)」より>

500号では、・・・ 

内容の重なりはあるものの「稲美町探訪」は500号になりました。

 もう少し続きそうです。

とりあえず600号を目標に「稲美町探訪」を続けますのでいましばらくお付き合いください。

 また、100号で「500号になったら分からない古文書と格闘しながら・・」とも書きました。

 67才(現在68才)の手習いです。最近、古文書の勉強を始めています。

 けっこう楽しいものです。

 先日、眼科で「視力が衰えていますよ」と言われましたが、幸い、古文書の文字は大きくて助かります。

・・・・・

*(「稲美町探訪は、503号で急停車して「志方町を歩く」を書くことにしました。「稲美町探訪」は後日続けます。その間ゆっくりと史料を集めます)

 志方町についても、500号ほど書けば、なんとか志方町の姿が浮かび上がるのではないかと楽しみにしています。

 2年ほどかかりそうです。

 そのとき70才です。取材でお世話になる志方町の人と一緒に呑むことにします。

<お詫び>

 「志方町を歩く」は、ある事情でパソコンが99号で突然でダウンしてしまいました。

 いろいろご試みたのですが、結局だめでした。今日(18)やっと回復しました。

 「志方町を歩く」を続けますのでよろしくお願いします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(45):投松(ねじまつ)

2011-07-12 10:23:46 |  ・加古川市志方全般

190  志方町を東西に貫通した、湯ノ山街道を歩いてみました。でも、再現できませんでした。

 いろいろご存知の方は一報ください。

 このあたりで、次の話題へ移りたいのですが、投松に来ていますので、「投松」の話題を少し取り上げましょう。

投 松

投松は、加古川市内でも最も読方の難しい地名でしょう。

「加古川検定」に出題されるかもしれません。先に、問題をつくっておきます。

問題  次の志方町にある地名「投松」の読み方次のどれでしょうか。

  なげまつ   ねじまつ   とうしょう

答は、「ねじまつ」です。「投松」の呼称について、『志方町誌』は次のように書いています。

 ・・・むかしは、「ねじりまつ」といったが、のち「ねじまつ」になったという。

 この「ねじ松」と言う名は、平荘との村境の街道ばたに、ねじり松の大木があったので、それに因んでつけたものである・・・

村境を示す榜示石(ぼうじいし)を「投げ石」と呼ぶ例がある。「投松」の「投」はこんなところにルーツがあるのかもしれません。

『志方町誌』にあるように、「村境を示す松の大木が、後に盆栽のように捻って育った」と考えるのが自然でしょう。

   もうひとつの投松

ことは簡単ではありません。東志方町大沢に「投松」という字(あざ)がり、こちらは「なげまつ」と読んでいます。

   もとは「捩り松(ねじりまつ)」

 話を志方町の投げ松に話をもどします。

池本寅男氏は『志方郷(第21号)』に、次のような一文を寄せておられます。

一部分をお借りします。

「・・・以前は捩松、捻松村と記されている文献も多くあり、投松と書いた一番古い記録は、寛永六年(1629)である。

投松文字を使うようになった理由がはっきりしない。・・・・

昔の文書は行書・草書が多かったので、書き誤りではなかったかと思う・・・」

池本氏の解釈を読んで「案外、そんなところが真実かもしれない・・」と思えてきました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(44):湯ノ山街道をゆく(21)・投松の湯ノ山街道

2011-07-11 19:04:54 |  ・加古川市志方全般

   投松に残る「湯ノ山街道」

Shikataa_003 志方町(しかたまち)から二子池までの湯ノ山街道は、元の姿はわからなくなっています。

二子池の道標から投松(ねじまつ)までの道も、またまた消えてわかりません。

志方町域を東西に貫いた旧:湯ノ山街道は、まさに幻の街道となりかけています。

さいわい、『志方郷(第7号)』で、磯野道子さんは、投松を通る「湯ノ山街道」について書いておられます。

(一部、文章を変えています)

 ・・・・・

投松(ねじまつ)の中に有馬道(湯ノ山街道)は残っていた。

 飲食店「ジョイフル」の北を通って、新道に並行するような形で、村の中を東へ進み、村を出外れると、左手に山や種鶏場を見ながら、峠下の池・峠上の池を右に見て、投松峠の上まで続いている。

 「この辺りは、道の両側から木々の枝が茂ってきて、長い間、昔の面影が残っていたところです」

 これは近くに住むおばあさんの話である。

・・・・・

     兵の道・湯治客の道

 この道は三木・有馬へ、そして京都へ続いた山陽道(江戸時時代は西国街道と呼ばれる)の裏街道でした。

 「湯ノ山」とは有馬温泉のことです。つまり「湯ノ山街道は、有馬を通り京都に通じる道のことです。

湯ノ山街道は湯治客の道ばかりではなく、南北朝の時代には播磨と西摂津を制した赤松氏がこの道を重要視し、軍用道として整備しました。

その後、三木合戦では、まさに兵の道となりました。

そして、三木合戦を制した豊臣秀吉は有馬温泉を愛し、有馬温泉はますます栄え、それに伴い、往来する湯治客や旅人は多くなりました。

六甲山の北を通って姫路から京都へのこの道を、人々は「湯ノ山街道」と呼ぶようになりました。

 *写真:投松に残る旧・湯ノ山街道(一部)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(43):湯ノ山街道をゆく(20)・志方町をゆく

2011-07-10 11:04:02 |  ・加古川市志方全般

湯ノ山街道の散策は、点(想像できる位置)を結びながら、志方町(しかたまち)の「有り馬」とある道標までたどり着きました。

地図で道標の場所を確認ください。

  志方町(しかたまち)をゆく、湯ノ山街道

B16a9eae 道標のある辺りは、かつての志方城のちかくです。

志方町(しかたまち)を貫通する「湯ノ山街道」について、松本光明氏は『志方郷(第20号)』で、次のように説明しておられます。

その一部を少し変えて掲載させていただきます。

「・・・(湯の山街道は)志方中央保育園から下ノ町公会堂の北側を通り、松野食料品店と住田商店との間を出て、旧宝殿道に突き当たり北に折れて赤線のように折れ曲がり東に向かう・・・」

松本氏の説明の「湯ノ山街道」を赤線でなぞったのが、上記の地図です。

それにしても、山陽道と共に姫路から京都へ続く幹道の一つが、こんな狭い道であったことと知る時ちょっとした驚きです。

志方町(しかたまち)を通った湯ノ山街道も、すぐに元の姿を消してしまいます。

次に分かっている地点は、二子池の南西隅の道標のあたりです。

    湯ノ山街道の散策を

天理教会のすぐ南から、「三木有り馬」の道標の場所へ、そして旧宝殿道に突き当たる道を一度歩いてみませんか。

歴史のニオイがしますよ。

「幸圓」のことなどを考えながら歩いてみるのもいいですね・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(42):湯ノ山街道をゆく(19)・志方町(しかたまち)の道標

2011-07-09 13:37:35 |  ・加古川市志方全般

001_2 かつて、志方町を東西に貫通した「湯ノ山街道」を探しています。

湯の山街道は、昔日の面影をほとんど残していません。

でも、点として分かっている場所があるので、それをたよりに歩いてみます。

分かっている地点の整理しておきます。

第一の地点は山中の集落のすぐ西の「腹切り地蔵」のところです。

第二は原の大池の東北隅です。

ここから東(志方町・しかたまち)への道は、すっかり変わっていて元の道は、はっきりしません。

でも、第三点は前回紹介した原の道路元標のある場所だろうと思われます。

   志方町(しかたまち)の道標

第四点は、志方町に入り道標(写真)の残っている場所です。

今日は、この標識を見学します。

道標の文字は少し判読しにくくなっていますが次のようです。

  (左面) 左 三木有り馬

  (中央) 右 □□□□

       左 石のほうでんそねの松 

  (右面) 右 法花山

 道標の「左 三木有り馬」のあるのは、左の道は三木・有馬へ通じる道であることを表しています。

つまり、三木・有馬へ通じる「湯ノ山街道」のことです。

(「湯ノ山街道」は、湯山道・湯山街道・有馬道・有馬街道など、いろんな呼び方をされます)

 この道標の辺りは、すでに志方城下町に入っています。

 ですから、少し複雑な道となり、「湯ノ山街道(24)」で紹介した二子池の「ありまみち」の道標の場所へ通じていました。

次回では、志方城下町(しかたまち)を走った「湯ノ山街道」を歩いてみます。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(41):湯ノ山街道をゆく(18)・原に残る道路元標

2011-07-09 08:15:48 |  ・加古川市志方全般

009道路元標(どうろげんぴょう)は、旧道路法(1919)により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるものとしていました。

ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されています。

道路の起点・終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていました。

大正11年(1922)の内務省令は、道路元標の材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、正面に市町村名を記すことを定めるとともに、寸法なども明示していました。

が、現行の道路法(昭和27年法律180号)では、道路の付属物としているだけで、設置義務、材質、様式などについての定めはありません。

現在、設置義務がなくなったためか、加古川市域では、16ヶ所の道路元標が設置されていましたが、現在7ヶ所の元標が残るだけです。

   西志方村道路元標」

志方町内でも東志方村・志方村にも設置されていましたが、現在確認できるのは、西志方町原に残る元標だけです。

元標には「西志方村道路元標」と刻まれています。

志方村にあった元標は、志方町(しかたまち)松ノ木(小字)にあり、湯ノ山街道と志方道の通る重要な交差点にありました。

*「志方村と志方町(しかたまち)の呼称」については、混乱しますので、後に取り上げます。

現在、志方町域で現存する原の道路元標の場所について、『志方郷(39)』で、磯野道子氏が次のように説明されています。

「・・・志方町原の現在の交差点の西20メートル(原公会堂東隣)の道端にあります。

しかし、ここは、現在の交差点ができるまでの古い道であったと思います。

永室から原を通って小学校へ行く細い道と有馬道(「湯ノ山街道」のこと)との交差点の道端に立っています。

今でも、その細い道はありますが、大正時代には西志方村の中心として重要な交差点であったと思います。

*『志方郷(第39号)』参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(40):湯ノ山街道をゆく(17)・下原

2011-07-08 07:56:23 |  ・加古川市志方全般

014 旧湯ノ山街道を歩いてみようと軽い思いつきで「湯ノ山街道をゆく」を計画しました。

が、肝心の湯ノ山街道のもとの姿は圃場や道路網の整備等で消えて、ほとんど分からなくなっていました。

山中は、山と山に挟まれた街道沿いに沿った集落のため、だいたいは想像がつきます。

山中から原へ出たとたんに街道のもとの姿は分からなくなります。

しかし、志方町(しかたまち)に「ありま道(湯ノ山街道のこと)」の道標があり、湯の山街道が、そこを通っていたことが分かります。

地図で志方町の道標と、原の大池の横の道を結んでみました。

湯の山街道は、原の集落と通っていたことは確かなようです。

そのため、原をあるきながら目についたもの、思いついたことを少し書いておきます。

      印南郡下原村  

それにしても原とは、シンプルな集落名です。

しかし、村名が原に落ち着くまでには、それなりの歴史があったようです。

『印南郡誌』によると、「原は、江戸の初期、印南郡重国村と藤池村そして比室村の一部が合併して印南郡原村とした」とあります。

後に、原新村を分村するのですが、明治9年に再び原新村を合併しています。

   下原村から原村へ

天文元年(1532)の報恩寺(加古川市平荘町)の文書に「薬師堂、鎮守伊和明神、原村有之」とあります。

 ここに見える原村は、現在の加古川市平荘町上原(かみはら)のことです。

 印南郡に、二つの原村があることは何かと不便であり、紛らわしいということで、区別するために、明治11年、上記の村名を原から上原に変えました。

 この時、志方町の原村は、下原(しもはら)と変わりました。

「上と下」、どうでもよいことなのですが、やはり価値観が伴います。「上」を選ぶのが人情です。

明治11年、両原村でどんなやり取りがあったのかわかりません。

志方の原は「下原村」を押し付けられています。

そして、昭和29年、西志方町原は志方町と合併した時に元の「原」に戻しました。

 それにしても、この時(明治11年)「どちらの村を上とするか」について、おそらく議論が沸騰したことと想像されるのですが、詳細はわかりません。

 「上原」は、そのまま今日にいたっています。

 *写真:原の仏性寺(記事内容と直接関係がありません)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(39):湯ノ山街道をゆく(16)・原の大池②

2011-07-07 07:53:56 |  ・加古川市志方全般

志方町には130あまりの池があります。

それぞれ歴史的な背景は異なりますが、多くの池は旱魃や洪水時に、なんらかの争いを経験しています。

大池の水争いをみておきます。

大池の水争い・山中新村敗訴

029_2明治1011月、「大池」の水をめぐって、大池から水を得ている成井村・西牧村・横大路村・原村・永室村が、山中新村を姫路支庁管内飾磨裁判所に訴えました。

大池の水は、上流(大池の1kmほど姫路より)の中山新村の小さな焼山池に流れ込み、そこから大池に流れています。

天明三年(1783)には、双方が証文を取り交わし和解していました。

弘化年間(184448)に、改めて証文を取り交わしています。

その中に「大池が満水の上は、焼山池へ水譲りもうすべし・・・」という文言があり、これをめぐって争い裁判に持ち込まれたのです。

結果は「山中新村の焼山池は、下流の大池が満水でない時は、水を取り入れることはできない」という江戸時代の慣行どおりに決着しました。

以上のように、明治時代の裁判でも農業用水は、江戸時代から続く水利慣行が守られました。

*写真:原大池の風景  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(38):湯の山街道をゆく(15)・原の大池①

2011-07-07 07:24:39 |  ・加古川市志方全般

山中集落から湯ノ山街道を東に歩き、原の大池の手前で、寄り道をして大歳神社に立ち寄りました。

そして、境内の「皇紀二千六百年の碑」や「西牧の大庄屋・内海氏」を訪ねました。

元の道に戻ります。

原の大池から志方町(しかたまち)へ歩きます。

まず、右手に原の大池の風景(写真上)が広がります。

    原の大池

025 原の大池は、横大路、原、成井、永室、西牧の集落にとって、まさに命の水甕です。

 これらの集落は、農業に十分な水を供給する川を持ちません。

 それに、急峻な山からの水は、そのままでは平野部へ流れ、法華谷川に流れ込んでしまいます。

 そのため、山に降った水を、いったん溜めておく池がどうしても必要になります。

 各集落でも小さな池を持っていますが、それだけでは十分ではありません。

原の大池の水は百姓にとって宝物でした。

それでも、しばしば旱魃に襲われています。

629日の神戸新聞では、大池の「樋抜きの儀」のようすを報じています。

    樋抜きの儀

梅雨入りとともに田植えシーズンを迎え、加古川市志方町原の大池で(5月)28日、農業用水を利用する5集落に分水する神事「樋抜きの儀」が行われた。

住民ら約25人が水利の安定と豊作を祈り、各集落に流れる水路にため池の水が注がれた。

 大池は面積9ヘクタール、総貯水量246500立方メートルで、志方町最大級のため池。

池を管理する横大路、 、成井、永室、西牧の各集落に注ぎ、約水田など110ヘクタールを潤す。神事は、池の水を使う前に行う伝統行事。

この日は各集落の町内会や水利組合の代表者らが見守る中、志方八幡宮の間原智子宮司が祝詞を唱え、一同で拝礼。大池のバルブを開けると、集落に配水する円筒形の施設「分水工」から水がごう音を立てて流れ出た。

 各地区の配水量や管理にかかる経費の負担は、昔ながらの「石高」で表した比率により、それぞれ定められる。

 成井町内会長の長谷川稔徑さん(67)は「昨年は猛暑と少雨でため池の水もギリギリだった。今年は適度に雨が降ってくれれば」と願いながら流水を見つめていた。                  (529日・神戸新聞より)

*写真:分水工

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(37):湯ノ山街道をゆく(14)・西牧組大庄屋②

2011-07-06 08:19:52 |  ・加古川市志方全般

西牧組は、文化2年(1805)内海継之(つぐゆき)が、福居組から大庄屋を引き継ぎ、成之、敬十郎と三代にわたり、その職を世襲しました。

継之は、膨大な「内海日記」を残しています。

   内海敬十郎氏の表徳碑

01_027今日、紹介するのは、西牧・大歳神社の境内の内海敬十郎の表徳碑(写真)です。

この表徳碑については『志方郷(第21号)』で松本裕翠氏が詳細を紹介されていますので、お借りします。

詳しくは、松本氏のご研究をお読みください。

碑文は漢文で書かれて読みづらいので、その一部を松本氏の要約のさらに要約で読んでみます。

『彼の功徳は、一村に及びました。村民はそれを忘れませんでした。

君(内海敬十郎)の功徳は枚挙にいとまがない程多くあります。

その内、もっとも著名なことは、安政2年の「奥の池の上の池」の堤防を高くしたことです。

この工事の費用は巨大でした。

そこで、藩主に報告して救済を願いました。

藩主は、敬十郎の村を思う心からの願を察し、村に役人が来ること度々でした。

そして、敬十郎は、村の債務のすべてを償い、工事は完成しました。

・・・明治二十四年七月建立。

西牧村の財政を豊かにするために、大庄屋・内海敬十郎は、私財を投げ出して工事を進めました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(36):湯ノ山街道をゆく(13)・西牧組大庄屋①

2011-07-05 12:51:37 |  ・加古川市志方全般

大庄屋

Ff1483db江戸時代の村々には、現在の村長に当たる庄屋が置かれていたことは良く知られています。

しかし、多くの場合、庄屋は藩の役人から直接命令・伝達を受けたのではありません。

藩の命令・伝達等は、いったん大庄屋(おおじょうや)に伝えられ、それから庄屋そして一般の百姓に伝達されました。

もちろん、村人の願いを藩に伝える場合は、庄屋・大庄屋・藩という逆の手順でおこなわれました。

大庄屋は、一言でいえば「庄屋の中の庄屋」で、大庄屋は、普通20ヵ村程度の村々を支配・管理する庄屋のことです。

大庄屋の管理する村々の範囲を「組」とよんでいます。

「組」の名前は、大庄屋のいる村の名をつけ呼ばれました。

    福居組から西牧組へ

天和4年(1684)~文化2年(1805)まで、志方地域の西中・助永・比室・西牧・志方・原・原新・成井・成井新・山中新の村々は、姫路の福居村の大庄屋の支配下にありました。

上記の志方の村々は福居組に属していました。

福居組の村々には、以上のほかに東阿弥陀・北山新・西阿弥陀・地徳新(以上、現:高砂市)、唐端新・北宿・小林・福居・福居新(以上、現姫路市)が福居組に属していました。

文化2年(1805)、福居組の大庄屋にかわり志方町西牧の内海氏が大庄屋に命じられ、明治4年(1871)の廃藩置県まで続きました。

そのため、上記の志方・姫路・高砂の村々は西牧組に属しました。

*福居組から西牧組にかわった理由を調べてみたいのですが、ご存じの方はご教示ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(35):湯ノ山街道をゆく(12)・皇紀二千六百年

2011-07-04 23:49:21 |  ・加古川市志方全般

01_023湯ノ山街道を姫路の方向から山中の方向へ歩いています。

道は、大池の手前で左に折れ、西牧(にしまき)に入ります。

すぐに左手の山麓に「大歳神社」があり、草刈りをされた後でしょうか、草に火が入れられ、煙が風で神社と反対側に流れていました。

煙の向こうに、「皇紀二千六百年」の碑がありました。

この碑は、他の多くの神社でもよく見かけます。

若い方にとっては、何が2600年であるのか、意味もよく分からない方も多いと思いますので、ここでこの碑を取り上げておきます。

    皇紀二千六百年

2月11日は、「建国記念の日」です。

伝承では、この日、初代の天皇・神武天皇は奈良の橿原で天皇になる儀式をしたといいます。

昭和15年(1940)の215日は、その式典から数えて2600年目(皇紀2600年)にあたるというのです。

昭和15年は、日独伊三国同盟・大政翼賛会の結成等、日本は着実に戦争準備を整えていました。

「皇紀2600年」を祝う式典も戦争に備えて、国民の意識を高め、団結を強める意味がありました。

昭和16128日、日本は真珠湾を攻撃し、無謀な戦争へ突入しました。

私の父もこの戦争で戦死しました。

少し付け加えておきます。

皇紀2600年の式典のあった、1940年をさかのぼること2600年前は、縄文時代であり、天皇は、もちろん存在していません。

あくまでも神武天皇は、神話(伝説)上の人物で、実在した天皇ではありません。

*写真:大歳神社の「皇紀二千六百年」の碑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(34):湯ノ山街道をゆく(11)・山中、白鬚神社

2011-07-04 08:25:36 |  ・加古川市志方全般

01_008今、「湯ノ山街道」を歩いています。

湯ノ山街道を歩くといいながらも、肝心の湯ノ山街がはっきりしないため、それらしき辺りを歩いています。

湯ノ山街道は、姫路から荒神谷に入り、山中を通っていました。

コンビニで買ったお茶を片手に、汗を拭きながら山中を歩いていると、「白鬚神社」にであいました。

社殿の中央に「白鬚大明神(ひらひげだいみょうじん)」の立派な額があります。

この神社に関して『志方郷(32)』で、山中地区の方が解説しておられます。その文章の一部をお借りします。(一部変更)

   白鬚神社の由来

・・・白鬚神社の由来は『印南郡誌』に、白鬚神社は、西暦1600年代の頃、山中新村の村民は旱魃に苦しみ、江州(滋賀県)高島より水の神様として白鬚神社を勧請しました。(以上『印南郡誌』より)

    山中集落の白鬚神社は「水の神」

そして、中山地区の方は過日、滋賀県高島の白鬚神社へお参りをしておられます。

「・・・(神社に近づくにつれて)まず、目に入ったのは、豊かな水を湛えた水の中央に立つ朱塗りの大鳥居でした。

・・・水の神様だなと思いました・・・また、豊かな水を求めて、先祖がご分霊を乞い奉った意味がわかったような気持ちになりました。・・・」と書いておられます。

     滋賀県高島から勧請

神社の由来は一般的に「怪しい」のが通例ですが、山中の白鬚神社の由来はすんなりと理解ができます。

山中は江戸時代の初期にできた新田村です。

田畑を潤す水は集落の北と南にそびえる急峻な山からの水に頼らなければなりません。

その水も十分ではない上に、そのままでは急流となり流れ下ってしいます。

中山新村は、水の少ない新田村で、旱魃がしばしば村を襲ったことでしょう。

滋賀県の高島から水の守り神として、白鬚神社を勧請し、氏神さんとした当時の村人の気持ちは、容易に理解ができます。

なお、「白鬚」の言葉の持つイメージから、山中地区の老人クラブを「白鬚会」と名付けておられます。

◇山中について◇

江戸時代初期に印南郡中筋村(現・高砂市)の船津氏や加古郡溝ノ口村の大村氏により開墾され、寛文二年(1662)に印南郡山中新村が成立した。(『印南郡史』より)

とすると、来年は開村350周年ですね。

*写真:白鬚神社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(33):湯ノ山街道をゆく(10)・一里塚

2011-07-03 00:07:33 |  ・加古川市志方全般

        門松は 冥土の旅の 一里塚

       めでたくもあり めでたくもなし

これは一休さんの作だといわれています。

もちろん、一休さんが生きた時代は(13921481)に、一里塚はつくられていません。したがって、この狂歌は江戸時代の他の人の作品です。

一里塚は、慶長9年(1603)、二代将軍・秀忠が日本橋を起点として街道筋につくらせてから、次第に全国に広がっていきました。

一里塚は、普通周囲が五間、高さ一丈の土を盛り上げ、そして目印に榎や松が植えられました。

兵庫県の一里塚は、ほとんど松が植えられました。

二つの一里塚

01_005志方町域には、旧湯ノ山街道に沿って二つの一里塚がありました。

一つは、前号で紹介した「胴切れ地蔵」の場所です。

昭和60年位までは大きな松の切り株が地蔵の横に残っていました。

それが一里塚に植えられた松の木でした。

古老の話では雷が落ちて松は裂けてしまったとのことです。

もう一つの一里塚は、「志方町を歩く(24)」で紹介した上富木・二子池の西南隅の道標がある場所です。

昔は松の木が植えてあったと古老は伝えています。

*写真:中山集落の西に地蔵堂

*「一里塚と腹切地蔵(志方郷・第5号)」参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(32):湯ノ山街道をゆく(9)・胴切れ地蔵

2011-07-02 07:28:40 |  ・加古川市志方全般

姫路から荒神谷、山中、原、志方町と通り投松(ねじまつ)へ抜ける道は旧湯ノ山街道です。

荒神谷から中山に向かう途中に一里塚の跡があり、「胴切れ地蔵」(写真)があります。

この地蔵には、二つの話が伝えられています。

     三木城の落ち武者絶命!

210 ひとつは、三木城が落城したとき(天正8年・1580)、一人の落ち武者がここまで逃げてきました。

しかし、二十二ヶ月にもおよぶ籠城戦の末のこと、武者は、飢えと疲労で気を失って倒れてしまいました。

この話を聞いた村人は、ようすを見に出かけました。

武士は切腹して息絶えていました。

    三木落城を知り落胆・切腹!

もう一つの話は、三木城を応援するために西国から駆けつけた武士が、ここまで来て三木城の落城を知り、落胆のあまり切腹してしまったというのです。・・・

ともに、戦国時代の三木合戦にまつわる伝承です。

村人は、その後に「石の地蔵」をつくり武士の菩提を弔いました。

「このお地蔵様の胴は、しばらくして二つに割れて、腹を切ったようになった」といいます。

この「胴切れ地蔵」は、どんな願でも一つだけ叶えてくれるといわれています。

お地蔵様の前の道は、姫路から志方・三木・有馬・宝塚を抜け、そして京都へと通ずる「湯ノ山街道」です。

三木合戦では、湯ノ山街道を多くの武士が駆け抜けました。

そのため、ここに三木合戦にまつわる話が伝えられているのでしょう。

なお、加古川町平野にも「胴切れ地蔵」の話があります。

「加古川町探訪・胴切れ地蔵」も、あわせてご覧ください。

*『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする