ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(144):綿のある風景(4)

2011-11-07 11:18:48 |  ・加古川市志方全般

一ツ橋領(東志方)の木綿商人

1_039加古郡・印南郡で生産される白木綿を「長束木綿(ながそくもめん)」といいました。

姫路木綿は、二つのルートを通じて江戸・大坂へ出荷されていました。

一つは、姫路周辺の木綿・綿布で、国産木綿問屋をとおして、他は長束木綿問屋を通して、江戸の三井・白木屋・大丸といった木綿問屋に売り渡し販売されました。

姫路城周辺の木綿問屋は、江戸積に積極的でした。

しかし、長束木綿問屋は、今までの取引の関係もあり、必ずしも江戸積み一本にまとまっていませんでした。

そんな状況下で、姫路藩の木綿の専売制度を実施したのです。

そのためか、姫路藩の専売制は綿を作るにしても、織るにしても規制はなく緩やかなものでした。

綿布などでは幅不足などの品もたくさん生産されるようになり、藩側は、江戸積み重視の立場から、幅・長さ等の規格を厳しくしました。

ともかく、姫路藩内では「規格外の商品は、江戸積みとして認めない」というのです。

東志方は、姫路藩にあらず

一方、綿布の織りにも寸法不足な不良品の流通も減少しません。

藩は、規格を守るように取締りを強めたのですが、取り締まれない事情があったのです。

印南郡の一部は、一ツ橋領(天領)で姫路藩ではありません。

東志方(一橋領)では姫路藩なみにしていましたが、姫路藩が規制を強制し始めると、東志方一橋領の仲買商は姫路藩から規格外の品を盛んに買い取って姫路藩の専売制に影響が出るほどになりました。

東志方は姫路藩ではありません。姫路藩としても、他領の取り締まりはできません。

そんな事情で、東志方(一橋藩)の商人は姫路藩では認められていない規格外の綿布も、盛んに取り扱いました

とりわけ、この傾向は、細工所の木綿商人より、同じく一橋領であった今市・中島・曾根(現:高砂市)の村々の木綿商人にこの傾向は大きかったのですが、彼らはひと儲けをしたというわけです。

*写真:東志方の風景(城山から)

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