ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(141)・綿のある風景

2011-11-04 07:31:35 |  ・加古川市志方全般

 昨日(113日)、近所(加古川市粟津)で、「播磨の綿まつり」が開かれました。

これは、江戸時代、加古川地域が綿の産地だった歴史を知ってほしいと地元の人が企画されたものです。

会場では、綿摘み・綿繰機を使った種とり作業・糸車を回す糸つむぎの体験もおこなわれました。

 江戸時代の後半、私たちの地域の秋は、白い綿の花で埋まりました。

 少し木綿(綿)について調べてみましょう。

綿のある風景

015綿の栽培が始まったのは、室町時代の中ごろです。

やがて、庶民の生活に入ってきました。

それまで着ていた肌ざわりの悪い麻布と比べて,柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく冬の防寒には最適でした。

江戸時代に入り、江戸や大坂等の巨大な消費都市が生まれ、交通も発達しました。

姫路領内では文化年間(180417)以来、畑地に綿の栽培が奨励されていました。

特に、綿作の中心となったのは加古川地域で、広く木綿畑がみられました。

綿は商品作物として栽培され、急速に生産を増やしました。

姫路木綿は品質が良く、薄手でやわらかく、その上、加古川の水質が木綿を晒す(さらす)のに適していました。

特に、綿布は白く「姫玉」とか「玉川さらし」と呼ばれて、江戸で大好評を得ました。

現在の志方町東志方は、天領(幕府領)でしたが事情は同じでした。

    

  夜なべ

綿栽培は、同時に木綿織等の副業をもたらしましたから、綿は米に匹敵する大切な作物でした。

『加古川市史(第五巻)』に、「一橋家領村々様子大概書」があります。

これは一橋領内の各村々の明細書ですが、東志方の各村々の記述には、決まったように「農業の間、男は薪を取、草を刈、女は木綿を織」の記述があります。

自分の家の畑あるいは、木綿問屋からの木綿で綿布を織っていたのでししょう。

江戸時代の東志方の村々の夜を想像しましょう。

あたりは静かです。

そして、どの家からも、遅くまでほのかな光が洩れています。

そして、コトン・コトンというリズミカルな機織りの音がありました。

山では、フクロウがホーホーと鳴いています。

*写真:綿(綿祭りの会場の綿)

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