ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

本州最南端の地へ!

2022-02-10 15:04:50 | ドライブ関連
どーも、ワシです。いや〜、ついに紀伊半島の端、つまりは本州最南端の潮岬に来ちゃいました。せっかくなので和歌山県東牟婁郡串本町潮岬(ひがしむろぐんくしもとちょうしおのみさき)にある「本州最南端の碑」を見に行くことにします。アクセスは県道41号から潮岬観光タワー付近から歩いて行くとあるようです。

到着しました。おーおー、これこれ。ネットで見たことのあるやつだぁ。 



その近くには似たように石碑。位置は北緯33度26分、東経135度46分。1987年7月に完成したもののようです。







近くの建物の傍に「顕彰碑」と記されたものが。



何だろうかと読んでみると、1878年から1941年まで日本人は北部オーストラリアの木曜島で真珠貝などの採取に従事し、地域産業の発展に貢献したそうな。そして日本人移民渡航100年を記念して1979年に木曜島の日本人墓地の中に慰霊塔が建設されたことを受け、採取に従事した人々の故郷であるこの地にその功績を称えて1998年9月に「顕彰碑」が建立されたようです。(参考



そもそもオーストラリアにおいて真珠貝採取業は1849年に西オーストラリアのシャーク湾でメキシコ・アコヤ貝の中から真珠が発見されたことに始まる。真珠採取の仕事は当初先住民やマレー系の労働力に依存していた。ところが彼らは潜水具の装着を嫌がったため、潜水具を装着する白人ダイバーに取って代わる。しかしそれでも死亡率が10パーセントという危険な仕事であることに変わりはなかった。

そんななか、ひとりの日本人が木曜島に降り立つ。島根県出身の野波小次郎である。野波はイギリス商人に同行して2年間の世界航海を終えた後、1876年に木曜島行きのラガー船のポンプ労働者として契約を結ぶ。そしてそこで潜水技術を学び、トレス海峡で有名な潜水夫となる。その後日本人は続々とオーストラリアへ渡航し、1883年には15人もの日本人が木曜島で真珠貝採取の仕事に携わることに。

日本人の優れた仕事ぶりは白豪主義による有色人排斥の傾向が強かった当時の風潮にあっても高く評価されることとなる。翌年にはオーストラリアの真珠貝業者がわざわざ日本へ来て潜水夫として渡航する者を募集しているほどだ。それほどまでに日本人の潜水夫の技術は高かったということなのでしょう。ちなみに1926年までにトレス海峡で従事していた潜水夫の99パーセントは日本人だったそうな。(参考

ほぉ、なるほどね。それはそうと、顕彰碑の上部にあるタコ入道みたいなものはなんだろうか…。気になりながら、すぐそばにある潮風の休憩所に入ると館内には興味深い資料がたくさんありました。受付のおねいさんに撮影許可をもらったので、その一部をご覧ください。

(年表)

(木曜島について)

(当時のダイバースーツ)


あっ、顕彰碑にあったのはこれです。ダイバーヘルメットだったのか…。





そういえば、ここ潮風の休憩所の入口脇にある銅像が気になったので受付のおねいさんに、「この銅像の人はどういう方なんでしょうか?」と訊ねると「ああ、下村宏(1875-1957)は号は海南と言い、昭和前半に活躍した官僚、政治家です。NHK会長(1943-1945)も務めました。また、戦争終結の際の玉音放送にも関係があるらしいですね」

…と、満面の笑みでお答えになる。

「へえ、そうなんですか。で、ここに銅像があるということは下村さんは串本町の出身で?」

すると、おねいさん、「いえ、よその人です!」とキッパリ。よくよく聞いてみると和歌山市出身らしい。うーん、確かに串本町の出身ではないにしても「よその人」って冷たく言い放つのは何か理由があるんでしょうか。でも、満面の笑みから一転して真顔になるところで、思わず苦笑してしまいましたよ。

ささ、次回からはまたダム巡りが始まります。
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