ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

どう生きるか

2007-06-19 23:58:58 | 脳みその日常
例の「歌い方教室」で教えた曲のなかに《千の風になって》がある。これは生徒さんの要望で取り上げた曲なのだが、ワシにとってはツライことこの上ない。故人のことを歌っている曲だからである。

何かイメージが重なるのだ。おまけに今日は命日。お宅を訪問し、お母様とお話をする。今年で七回忌だというのにお母様は故人を思い出しつつ涙ぐんでいらっしゃる。改めて愛情の深さを感じた。驚いたことにお母様の口から《千の風になって》って曲は悲しいですねという言葉を聞く。あぁ、やっぱりそうなのかと思う。

この日には故人の友人から相変わらずお花が届いていた。こういうのを見ると、ある言葉を思い出す。

「人は二度死ぬ」

最初は肉体的な死、二度目は思い出からの忘却。つまり、まず人間は肉体としての死を迎えるが、人々の思い出のなかに故人はまだ生き続けている。だから肉体はなくなっても人々の記憶の中では生きているのだ。そして身内や友人などその故人の記憶をもっている人が実際に亡くなった時、本当の死を迎える。

ここで注目なのは、最終的な死を迎える時間が長い人ほど、その人の生前の人徳なり人柄が優れているという点だ。これは故人の頭の善し悪しとかそういうものではない。いくら生前キレ者であっても、心の貧しい人だったり自分本位で生きた人は最終的な死が意外なほど早く訪れる。

本人にしてみれば「もう肉体的に死んでいるんだから関係ないさ」と言うだろう。まあ、そうかもしれない。でも周囲の人が故人に対して抱く気持ちまでは、いくら本人でもどうすることもできない。逆に故人が周囲の人から「いい人だったね」と思われたいとしても、周囲の人がそう思わなければオシマイ。

要は肉体的な死までは自己アピールや自己評価で何とかなるかもしれないが、そこから先は他人の評価に委ねるしかないということ。ということは、つまりその人の本当の価値とは周囲の人々の記憶の長さに比例するということなのではないか。

どちらの生き方を選択するかは自由。どちらが良いとか悪いということではない。ただ、ワシは「善く」生きたいと思う。「善く」生きるとは善人ぶる意味ではない。少なくとも自分の気持ちに正直でありたい。あとは周囲がワシを判断してくれるだろう…。
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