ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

千松ダム…そして、ちょっと考察

2024-07-07 06:54:04 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県一関市藤沢町大籠(いちのせきし ふじさわちょう おおかご)にある北上川水系二股川(ふたまたがわ)に築造されている千松(せんまつ)ダムを目指します。アクセスは国道346号沿いにある「千松左官」の看板付近の道を入り、道なりに進んでいくと到着します。

まずはダム下へ行って「御尊顔」を拝みます。

続いて右岸のダム横に向かいます。付随する建物の屋根の形と色が印象的。

右岸、上流側から見た様子。

ダム本体に嵌め込まれたプレート。ダム湖名は「せんまつ湖」。

右岸、ダム横から見たダム上の様子。行ってみましょう。

欄干には藤の花をかたどったものが…。それは築造当時の地名が東磐井郡(ひがしいわいぐん)藤沢町で、同町の花が藤だったことに由来するものと思われます。なお、同町は1926年6月1日からの名称でしたが、2011年9月26日に一関市に編入されています。

ダム上、中央から見た「せんまつ湖」の様子。

一方、ダム下の副ダムを覗き込み、

下流方向の遠景を眺めます。

左岸側にあるこの建物は千松ダム管理事務所。それにしても独特なフォルムです。これは後述するようにキリスト教会をイメージしたもののように思えます。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、管理事務所付近から見たダムの様子。

同、「せんまつ湖」側から眺めます。水の色がなんとも言えません。

その近くには「せんまつ湖」と刻まれた石碑と、平成八年十一月吉日と記された定礎の碑。


案内板には諸元と「せんまつ湖」の由来が書かれています。

それによると、千松ダムは国営藤沢開拓建設事業で造成した田畑の灌漑用水確保のために築造された直線重力式コンクリートダムで、着手は平成7年12月、完成は平成10年(1998年)10月。高さは26.8m、長さは111.0m。ダムの規模を25人乗りのマイクロバスを単位として表現しているのは面白いですね。

「せんまつ湖」の由来。この説明によると備中国(現在の岡山県)の精錬師、千松大八郎と小八郎兄弟が招聘されてこの地に居を構えたことから地域一帯が千松と呼ばれるようになったことに由来するとあります。ところが、いろいろなサイトを調べていくと事実はちょっと違うようです。


つまり、千松兄弟が招聘されてこの地に来たのは説明では1592年と読めますが、兄弟に秘法を学んだという烔屋衆(どうやしゅう)のひとりである千葉土佐(1543-1590)の年譜(参考)によると兄弟を招聘したのは1558年で、しかも兄弟の姓はもともと「布留(ふる)」だったようです。そして兄弟は最初桃生郡に烔屋を構え、その後1592年に製鉄に適した大籠村の千松沢に定住し姓を「千松」に変えたそうな。だから案内板の説明では千松兄弟がこの地に来たから地名が千松になったとありますが、実は千松沢というのがもともとあって、そこに兄弟が居を構えたので姓を「布留」から「千松」に変えたというのです。

ところがですよ、備中の製鉄の歴史研究(参考)によると平安時代には製鉄が盛んだった備中国ですが鉄鉱石は次第に枯渇し、11世紀以降は備前と備中南部の製鉄遺跡が見られないそうな。ということは兄弟が招聘された1558年頃はすでにこの地で製鉄は行われていなかったことになりますね。なのに兄弟は招聘された…。なんのために? いや〜、なんだか不自然ですよね。もしかして兄弟は作られた人物ではないかと、この著者は考えます。

では、なぜ千松兄弟の話は作られたのでしょうか。時代は下り、江戸時代になった1637年、九州で島原の乱が起こります。幕府はキリシタン勢力による乱に驚き制圧するのですが、仙台藩でもキリスト教徒の弾圧が1623年から始まります。そして1839年、大籠村で神父を匿っている住民がいるとの密告があり、神父は江戸に送られ火刑。それに伴い大籠村でも信仰を貫いた309人のキリシタンが殉教する悲劇が起きます。これが意味するのは大籠に製鉄技術とキリスト教を教えた者がいたということ。著者によれば、それは後藤寿庵と孫右衛門神父だそうな。

後藤寿庵(1577-1638)は陸奥国磐井郡藤沢城主、岩淵秀信の次男(又五郎)として誕生。1596年に長崎で洗礼を受け、寿庵と改名します。1612年、伊達家の家臣である後藤信康の義弟となり後藤姓になり、見分村(現在の岩手県奥州市水沢福原)を拝領。そして荒地を開墾しつつ西日本諸国を巡ったときに学んだ「けら押し法」による新しい製鉄技術を大籠の人たちに伝えたそうな。しかしキリスト教を信仰するのは良いが布教は止めよという伊達政宗の提言を断ったため、その後水沢の家を放火され1638年に亡くなりました。

孫右衛門神父は1615年にスペインから来日した人で、本名はフランシスコ・バラヤス。当時江戸幕府はキリシタン禁教政策をとっていたため、1621年、まだ禁教政策をとっていなかった仙台藩に逃れる。そこで寿庵と出会い、彼と共に人々に信じることや希望持つこと、そして愛することを伝えます。しかし上に書いたように1639年に捕えられ、江戸で火刑に処せられました。

で、なぜ千松兄弟の話が作られたのか。その理由としてこの著者は寿庵と孫右衛門神父は「厳しい禁教化において二人とも罪人として処罰されており、当時二人の実際の名を語ることは不可能なことでした。代わりに千松大八郎、小八郎という名前を使うことで、大籠の人たちは自分達が信じた信仰の素晴らしさを子孫に伝えたかったと考えられます」と結論づけています。

うーむ、「せんまつ湖」の由来からだいぶ脱線してしまいましたね。でも、これがきっかけになっていろいろと学ぶことができて良かったと思います。
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