ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

矢尾田の粘り腰!…鮎屋川ダム

2023-01-30 06:56:40 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は兵庫県洲本市鮎屋(すもとし あいや)にある洲本川水系の鮎屋川(あいやがわ)ダムを目指します。アクセスは国道28号の「久次米(くじめ)」信号を入り、しばらく道なりに進んで行くと右側にニトリ淡路配送センターが見えてきます。それを横目に見ながら進み、2つ目の大きな交差点を左折(そのまま直進すると次々回記事にする初尾川ダムに辿り着きます)。オニオンロードを進んで行くと大き目の橋が現われます。橋を渡った先の交差点を右折し、そのまま行くと目的地に到着です。

【鮎屋の由来】(参考
なんとなく想像できると思いますが、これは「鮎のいる谷」の意味で、そこを流れる川なので鮎屋川と命名されたようです。また、これ、フツーに読めば「あゆや」ですが「あいや」と読むのは、ここが「藍染の産地」であることに由来するようですね。

上のアクセスの通りに行くとダム横に辿り着くんですが、まずはダム下に行ってみました。これが「ご尊顔」です。


では、順を追って見ていきましょう。アクセス通りに来るとダムの右岸に到着します。こんな感じの横長のダムです。


右岸のダム横にある建物が「鮎屋川ダム管理所」で、


兵庫県のため池に見られるこの看板が設置されているということは、ここもため池と位置付けられているのかもしれません。これについては後述します。


また、鮎屋川ダムから放水される水を利用して発電が行なわれていて、関西電力へ売電しているようですね。


近くにはこの周辺の「地域資源マップ」があり、観光の目安になります。


そのマップにも載っている石碑「矢尾田京兵先生頌徳碑」がダム横にあります。矢尾田京兵(1911- 没年不詳)は三原郡広田村鮎屋に生まれ、昭和26年(1951年)に広田村村長に就任。昭和32年(1957年)7月に同村が洲本市に合併後は県議会議員、鮎屋川土地改良区理事長などを歴任し、この鮎屋川ダム築造に尽力するなど地域の行政・水利事業に寄与した人物として知られています。



石碑の近くには「水神祠」と刻まれた石碑があります。


その隣には「鮎屋川ダム概要」が記されています。諸元によると高さ46.2mの直線重力式コンクリートダムだそうです。


【鮎屋川ダム築造の経緯】
…と、まあ、ここまで書くと鮎屋川ダムは単独で築造されたように思えるでしょうが、実はそうではありませんでした。この資料にはその築造の経緯が記されています。それによると、鮎屋川にはこの上流に大城池(だいじょういけ)というのが昭和3年(1928年)に完成していたのですが、だからといって下流域の水不足解消には至りませんでした。大城池の完成を見込んで下流では畑を水田へ転換したところもあり、それが用水不足へ拍車がかかりました。このため渇水時になると水利権の争いが絶えなかったそうです。そこで昭和14年(1939年)に大城池の上流に大野村と広田村の頭文字に由来する大広池(おおひろいけ)の築造が提唱されるも昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争勃発により計画は中止となります。
(第一次鮎屋川ダム計画)
戦後になり、わが国では食糧増産対策が提唱され、地域農業の安定化が急務となります。そこで立ち上がったのが上にも触れた当時広田村村長だった矢尾田京兵でした。彼は兵庫県へ「鮎屋川に200万立方メートル規模のダム」を県営事業として建設して欲しいと要請。兵庫県も前向きに検討していましたが、昭和29年の町村合併促進法の施行に伴い、洲本市と広田村の合併問題、そして兵庫県が抱える財政再建問題の関係からダム建設計画は中止になってしまいます。
(第二次鮎屋川ダム計画)
しかし矢尾田は諦めませんでした。昭和37年(1962年)、当時県議会議員となっていた彼は洲本市長と三原郡緑町町長と連名で「県営鮎屋川ダム建設促進」の陳情書を県へ提出。それと同時に「県営鮎屋川ダム建設期成同盟会」を立ち上げます。そして翌年には全体計画書を作成・提出するも経済効果が低いという理由で採択されませんでした。
(第三次鮎屋川ダム計画)
それでも矢尾田は地域のために事業計画を再考し、用水改良、防災、さらに開拓事業を盛り込んだ多目的事業とする全体計画書を練り直し、その計画書は昭和39年4月に当時の農林省で採択。これにより翌40年(1965年)12月に鮎屋川ダム着工が農林省で認められ築造がスタートします。そして昭和44年11月に念願だった鮎屋川ダムが完成したのです。なるほど、ここに矢尾田の功績を讃える石碑があるのも、これで頷けますね。

そんな経緯で完成した鮎屋川ダムのダム上がこちら。歩いてみましょう。


ダム本体の、いわゆる親柱には「昭和44年9月竣工」と記されたプレートが嵌め込まれています。


ダム上、中央から見た貯水湖の様子。この上流に次回記事にする大城池があります。


ダム本体に嵌め込まれた洪水吐設備と取水設備のプレート。どちらも平成12年(2000年)3月製作とあるので作り直したのだと思われます。



一方、ダムの真下はこんな感じで、

下流側の遠景はまるで空撮のよう。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


左岸、貯水側から見たダムの様子。


つらつらと鮎屋川ダム築造の経緯を書きました。たまたま経緯がわかったので書いたのですが、ダムが築造されるにはそれぞれ理由があるはず。それを知るのと知らないのとではダムの見方も違うんじゃないでしょうか。次回はこの上流にある大城池を訪ねてみようと思います。
コメント    この記事についてブログを書く
« シンプル!…猪鼻第2(二)ダム | トップ | 築造だ!以上、行け!…大城池 »

コメントを投稿

兵庫(ダム/堰堤)」カテゴリの最新記事