ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

築造だ!以上、行け!…大城池

2023-01-31 07:04:48 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県洲本市鮎屋(すもとし あいや)にある洲本川水系の大城池(だいじょういけ)を訪れます。ここは昨日記事にした鮎屋川ダムの右岸の道を少し登っていった先にあります。なので、鮎屋川ダムまでのルートについては昨日の記事をご覧ください。

アクセス通り来ると目的地の左岸に到着します。左岸から見た大城池はこんな感じ。


近くには案内板があります。それによると現在の洲本市の南西部にかつてあった大野村は地形が台地だったため日照りが続くとたちまち水不足になったそうです。この問題を解決すべく大正元年(1912年)にため池を築造しようという声があがりました。ところが鮎屋川の下流で取水する人々から反対されてしまいます。なぜならその上流にため池を作ってしまうと下流の水量が減ってしまうと考えたからです。そのためすぐに工事に取りかかることができず、代替策として用水を流すための井堰とトンネルを2年かけて作ったそうな。その後、水についての問題も解決し、大正12年(1923年)になってようやく大城池の工事に着手。そして昭和3年(1928年)に完成したそうです。


左岸、貯水側から見た大城池の様子。右岸に洪水吐があるのが見えます。


左岸から見た、いわゆるダム上。


すぐ近くには「大城池」と記されたプレート。何度も書きますが、この形のプレートは兵庫県のため池に表示されているものです。


ダム上、中央から見た大城池の様子。ため池扱いなのでしょうが、いえいえ、どうして、立派過ぎるため池です。


左岸側にあるこのユニークな形状のものは取水塔。


一方、下流側の景色はこんな感じ。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな景色です。


こちらには、まず3つの石碑が並んでいます。

これは大城池の諸元が記されていて全部は読めませんが、

大正12年(1923年)1月24日に工事着工、昭和3年(1928年)9月30日に竣工と記されているのが読み取れます。

これは「水神祠」で、昭和11年(1936年)4月に寄進されたと記されています。


そして、これは2007年の改修工事竣工記念に建てられた石碑。その内容は余水吐(洪水吐)周辺の漏水防止工事だったようです。


右岸の少し下流側には2つの「物体」が…。右側にあるのは恐らく水神様で、

左側は「大城池之碑」。題字を揮毫したのは貴族院議員の永田秀次郎(ながたひでじろう:1876-1943)。彼は貴族院勅選議員を1918年から1943年まで務めています。この石碑、真横に割れた形跡がありますが、もしかして1995年の阪神・淡路大震災で倒壊して割れたのでしょうか…。

せっかくなので石碑の内容を転記します。不明の箇所もありますが、ご容赦。

「洲本町ノ西南端大野外七部落ニ亘ル六十餘町歩ノ水田ハ古来水利ノ便ヲ缺キ此年旱損アリ禾穀稔ラズ永ク農耕ノ不利ヲ忍ベリ識者夙(つと)に之ヲ愁へ水利ノ根本改善ヲ唱導スルヤ●亦渾然之●和シ地ヲ鮎屋河内ノ渓谷ニ相シテ一大貯水池ヲ築造シ瘠薄(せきはく)ノ畑地約五十町歩ノ開田ヲ併セ行ヒ之ガ水源タラシムルノ計畫●樹テ大正八年十一月耕地整理組ヲ組織ス山口恒雄翁組合長ノ職ニ就キ鋭意事業ノ進捗ニ努メ幾多ノ障碍ヲ排除シ十年五月先ノ放水隧道ノ工事ニ著手セリ然ルニ工半ニシテ翁の長逝ニ遭遇セルハ遺憾ト謂フベシ然レ●嗣子聞一氏克(よ)ク先考ノ意図ヲ継承シ役員以下亦奮起遂ニ大正十二年一月此難工ヲ竣(お)ヘ直ニ溜池築堤ノ工ヲ起ス爾来峻嶮ヲ征シ荊榛(けいしん)ヲ芟夷(さんい)シ細積固結人為ノ最善ヲ傾倒スル茲ニ六星霜昭和三年九月完成ヲ見 大城池ト命名ス盖シ●大城郭ノ如ク又堅緻ニシテ大丈夫ノ意ヲ寓(ぐう)ス其後昭和八年更ニ増築ノ工ヲ施セリ若夫池水一度満盈(まんえい)セムカ紺碧ノ水滾々(こんこん)トシテ幹線水路ニ奔注シテ全域ヲ霑潤(てんじゅん)シ一朝旱天に際會スルモ亦昔日ノ患厄ナク千載農ヲ濟ハム歟茲ニ其梗概ヲ叙シテ不朽ニ傳●
   昭和九年九月 兵庫県耕地課長 野呂勇之助譔又書」



要するにかつての洲本町の大野村と7つの部落では昔から水の便が悪く、干ばつがあると穀物は実らず農耕をするには不利な地であったが人々は耐えていた。専門家は以前からこれを憂い、水利を根本的に改善すべきと提唱。(中略)鮎屋河の渓谷に一大貯水池を築造して不毛な畑地、約50町歩を水田にしてこの水源にする計画を立て、大正8年(1919年)11月に耕地整理組合を立ち上げ、山口恒雄が組合長に就任し事業の推進に取り組み、多くの困難を乗り越えた。大正10年(1921年)5月には放水トンネル工事(※)に着手するも工事半ばにして山口が亡くなられたことは遺憾という他はなかった。だが子息の聞一氏は十分に亡父の考えを受け継ぎ、役員以下が奮起した。ついに大正12年(1923年)1月、この難工事を完成させ、すぐに溜池築造工事に取り掛かった。以来、幾多の困難を乗り越えて昭和3年(1928年)9月に工事は完了し大城池と命名した。(後略)

(※)この放水トンネルというのは鮎屋川の水がこのトンネルを通って下流へ向かうためのもので、上流からの常流水が大城池へ流入しないようにしたもの。つまり増水した時にのみ大城池へ流れ込むという条件で下流の水利地権者と折り合いをつけたというわけです。経緯の詳細についてはコチラをご覧ください。

さて、右岸には越流式の洪水吐があります。これはなかなか大きなもので、増水すると水はここから溢れ出て、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。


たかがため池ですが、築造の経緯を知ると本当に難事業だったんだなぁとつくづく思います。水に執着する人間…恐ろしいねえ。まあ、命がかかってますからね。仕方がないのかもしれませんが。
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