ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

~されている

2005-06-26 05:41:50 | 脳みその日常
これまでの人生を振り返ってみると、自分が願ったことはほとんど実現している。「こうなればいいな」と思えば、その通りになったし、「こうなりたい」と思えば、そうなった。自分には念力でもあるんじゃないかと思ったこともある。なーんだ、人生なんて自分の力でどうにでもなるじゃないか。人生は自分で切り開くものなんだよな。そう思ったりもした。

ところが、最近では必ずしもそうではないという気持ちが強くなっている。ワシはもともと自ら「営業」して自分を宣伝するのが苦手である。この業界に入った最初の頃は、さすがに自分という存在を知ってもらうために「営業」したこともあった。しかし、今では自ら売り込む活動は一切やっていない。正直なところ「面倒くさい」からである。自分のペース、自分のスタイルに合った仕事ができればいいと思ったからである。

今年になってから奇妙な出来事が相次いで起こっている。それは自分の与り知らぬところから原稿の依頼がたびたび来るようになった。きっと、どこかで誰かがワシの話をしたのかもしれないし、編集者自らがワシのことを知ったのかもしれない。いずれにせよ、自身が望む望まないに関係なく、ワシの人生は何かに「動かされている」のではないかと思ったわけだ。

結果からすると、ワシの人生の在り方は予め決められていたのではないか、と思ったりもする。「動かされている」と感じるのはワシの主観が勝手に判断したことであって、もしかすると実は決められたプログラムがあって、本人はそれに従って生きていただけなのかもしれない。本人はそのプログラムに気づかないわけだから、当人に予期せぬことが起これば、驚いたり、ショックを受けたりする。でも、そうなるのはすでにプログラムで決まっていたことだとすれば……

これはまさしく運命論である。もちろん、ワシは運命論を支持しようとは思わない。だって、人生が運命によって予め決められているなんて思ったら夢も希望もないもんな。たとえば、もし自分に「悲惨な生涯を送るというプログラム」が組み込まれているとしたら、どうだろう。もう生きていたくないよな? うん、きっと絶望するよ。結果として悲惨な生涯だとしても、それはそれで諦めもつくだろう。しかし懸命に生きている途中で、「あなたは悲惨な人生を送ります」なんてことがわかった日にゃ、「じゃあ、どんなに努力してもダメじゃん」と悲観的になるに決まってる。

そんなことを人々が気づいたら大変なことになる。いわゆる自殺の名所に人々は殺到。たとえば、富士山の麓にある樹海は黒山の人だかりになるだろうし、福井県の東尋坊では混乱を避けるため、飛び込み予定者に整理券が配られるといった珍現象も起きかねない。現代は、ただでさえ労働人口が減少しているのに、これ以上人口が減ったら困るではないか!

冗談はさておき、じゃあ、我々はどう考えればいいのか。

簡単である。人は今までのようにそれぞれの目標に向かって突き進めば良いのだ。結果は問題ではない。あとで振り返った時に「あぁ、動かされていたな」と思えば良いのである。万一自分が目標とするものに到達できなかったとしても凹むことはない。その時の自分が一所懸命やったのであれば悔いはないだろうし、目標とは異なる結果に「動かされた」だけのことなのだから。
コメント