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ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

学生時代の年末年始

2007-01-03 07:16:47 | 回想する脳みそ
今回は情報発信ではない。ちょっとだけ回想してみる。お許しいただきたい。

学生時代、年末年始はバイトに明け暮れていた。むろん数ヶ月後に払うための授業料を稼ぐためである。当時は今ほど労働時間に規制がなかった。そのため働こうと思えばいくらでも働くことができたのだ。

普段でも12時間くらい働くのは当たり前だったが、年末年始の時期だと「正月手当」がつく。加えて大学の授業はないから働きホーダイ。雇用する側も大歓迎で「え?働きたいの?いいよ、どんどん働いてよ!」てな感じ。だからトラックのハンドルを握り続けて1日に17時間なんて珍しくなかった。

とはいえ所詮はバイト。配車係から与えられるトラックは毎回オンボロばかり。そこそこの規模の運送会社であれば大抵「運行前点検」をする。運転前にトラックの外観、タイヤの空気圧、エンジン・オイルの量、ラジエータの水などを確認するのだ。

各項目をちゃんと点検しないと配車係から大目玉を食らう。いや、運行前点検は配車係に怒られるからやるというより、自分の命に関わることなのでやらないわけにはいかない。何せ与えられるトラックの総走行距離は60万kmとか70万kmなのだ。トラックでいえばロートルもいいとこ。

そんなオンボロでも近場をノロノロ走るのなら問題はない。ところが高速に乗って往復500kmも走るのだ。場合によっては1,000kmもジャーニーしなければならない。最近のトラックは知らないが、当時のトラックなんてエンジン・オイルの消費がハンパでなかった。運行前点検の時に規定の量のオイルを入れても、ひとまわりしてくればオイル・ゲージに付かないほどオイルは消費したのである。もしオイルの量を確認しないまま旅立ったら、運が悪ければ途中でエンジンが焼き付き、高速道路上で文字通り「死の旅」に行くことになる。運行前点検を欠かさなかったのはそのためだ。

笑っちゃうのは当時運転中ワシの脳みそのなかで鳴っていたのが《巡礼の年》だったこと。これはリストのピアノ曲集なのだが、なぜ《巡礼の年》なのかは覚えていない。オンボロのトラックなのでエアコンはおろかカーラジオも機能しない。そんななかでこの曲集のなかの《泉のほとりで》とか《オーベルマンの谷》、さらには《ダンテを読んで》が頻繁に「流れて」いた。さすがに《葬送行進曲》が鳴りだした時にはアセッたけどね。死出の旅かよ!…と。

睡魔と闘いながら、よくもまあ走り続けたものだと思う。さすがに今はそんな労働をしていないが、相変わらず正月はない。特に今年は。詳しくは言えないが変更の可能性のある原稿待ちなので遠出できないというわけだ。高速に乗らないのに「拘束」とは、これいかに。

さぶいですか、そーですか。
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感謝の日

2006-06-19 15:35:25 | 回想する脳みそ
本日2本目のブログ。いや、ホントはこちらのほうがメインなのだ。今日という日がワシにとってどんな意味をもつのかは、ずっとこのブログを読んでおられる方ならご存知だろう。なので、もう詳細については語らない。

だからといって全く忘れてしまったわけじゃない。このところこのブログが多くの読者の目に触れるようになったことと、あまりにプライヴェートなことをクドクド書いても他人にとってはどうでもよいことだろうから書かないだけのこと。そう、ワシが死ぬまで忘れなければいいのだから。

午前中に仕事を片付け、いつもの場所へ向かうとともにお宅へ挨拶に行った。みなさん元気そうで何より。

いつものように店子の花屋さんに花束をお願いした。ひとしきり世間話をしようとしたら、社長が「お世話になりましたね。それで来週一杯で店をたたむことにしました」と衝撃の発言。

「いえ、このお宅が建て直すということで、これを機会に商売を辞めようと思いましてね」
「そ、そうなんですか…さみしくなりますね」
「でも、ここで40年も商いをしてきたんですから悔いはありませんよ」
「お疲れさまでしたね。これからはゆっくり休んで下さいね」
「それにしても、いつもウチを利用していただいてありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそお世話になりっぱなしで」

そんな会話をしていたら、あることを思いついた。

そうだ、今日という日はワシにとって感謝の日にしよう、と。なぜそう思ったのか。生前の彼女はワシに多くのことを教えてくれた。多くのことといっても、それは知識という意味ではない。人が当たり前に持たねばならぬもの。たとえば他人に対する思いやりとか、どんな人にも同じように優しく接することなどである。

そんなことは簡単なことと思うかもしれない。誰にでもできることと思うだろう。しかし、簡単なことのように思えて実際にそうしている人はあまり見かけない。人間にとって必要なことなのに、それが実行できないとは何たることだろう。そんなことに気づかなかったワシに彼女は態度で教えてくれたのである。

また、これは前にも書いたことだが、彼女からは無償の愛というものを教わった。これも言葉で教えられたのではない。彼女の生き様そのものが無償の愛だった。決して誇張しているのでなく持ち上げているのでもない。今さらゴマをすったところで戻ってくるわけじゃないし。

今日を感謝の日とするのは、ワシを人として成長させてくれた彼女に心から感謝したいなと思ったからにほかならない。でもワシはまだまだ未熟者。見習うべきことは山ほどある。少しでも「師匠」のようになれたらいいな…。そんなふうに思った。
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懐かしのエアプレイ

2006-06-18 07:24:08 | 回想する脳みそ
深夜、ふと頭をよぎったのはエアプレイの《ストランデッド》。若い人には何のことやらさっぱりわからんだろうが、中年以上のロック・ファンならニヤリとするかもしれない。いやまてよ、エア・サプライは知っててもエアプレイは知らんかもしれんな。

というわけで今回はエアプレイのご紹介。これは名アレンジャーとしても知られるデヴィッド・フォスターとギタリストのジェイ・グレイドンを中心メンバーとするバンドのこと。バンドといっても公的な活動をしていたわけじゃない。実はこのバンドはスタジオ・ミュージシャンたちの寄せ集めによって構成されていたのだ。たとえばスティーヴ・ルカサーをはじめとするTOTO(注意:クリックすると音が出ます)のメンバーたちも参加していたのだ。

で、豪華ミュージシャンたちによって作られたのが「ロマンティック」(1980)という1枚のアルバム。右の写真は上がジャケットのオモテ、下がウラである。このアルバムがリリースされた頃はまだLPの時代。CDは1982年からだからね。ちなみにこれらの写真は1990年にCD化されたもの。しかしLPのジャケット写真をそのまま使用しているので、ここに載せることにした。

なお、冒頭で書いた《ストランデッド》はこのアルバムの第1曲で、今聴いてもカッコイイ。そうそう、有名な《アフター・ザ・ラヴ・イズ・ゴーン》もここに収録されているんだぜぃ。そりゃそーさ、作曲したのはそもそもフォスターなんだし。

ただ、まあ残念ながらエアプレイは上述の通り正式なバンドじゃなかったので、エアプレイとして発売されたのはこの「ロマンティック」のみ。でも当時のロック大好き少年たちはこのアルバムをこぞって耳コピーしたものだ。そして学校の文化祭とかでライヴ演奏していたっけ。

でもアルバムで演奏しているのが一流のスタジオ・ミュージシャンなので、音を探ることはできても「音色」まで真似するのは難しかった。ルカサーのギターなんて「どうやったらあんな音になるんだ?」と昼夜問わず試行錯誤を繰り返したことを思い出す。

いやー、あの頃は「熱かった」な…。あははは。
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宿ちゃん

2006-06-13 04:37:11 | 回想する脳みそ
釈ちゃんではない。シュクちゃんである。ワシがまだ若い頃、トラックを転がしていた運送会社にいた名物オヤジの愛称だ。さすがに若い連中は気軽に「宿ちゃん」とは呼べなかったが、ある程度の年齢の人たちからはみな「宿ちゃん、宿ちゃん」と呼ばれていた。

音だけで捉えれば「宿ちゃん」とは何ともカワイイ名前であるが、実物はまったく違った。何か気に入らないことがあると、それこそ烈火の如く怒りだし、周囲の我々は何故彼が激怒しているのかがサッパリわからなかったこともしばしば。ワシが新人としてその会社に入った頃なんて顔を見るたびに怒られた記憶しかない。でも機嫌がいいとニコニコ笑っていて、その笑顔はまさに「宿ちゃん」と呼ばれるに相応しい愛くるしいものだった。

理由はともあれ、あれほど激怒する人は今までに見たことがない。思い返せば、ワシが宿ちゃんに怒られたのは仕事に不慣れなことが原因だった。マトモに教えてくれる人がおらず、どうやってよいのかわからないのだから怒られても当然だ。たぶんベテランの宿ちゃんからすれば見ていて本当にイライラしたのだろう。

「ったくよぉー、何やってんだよ!コノヤロー!」

もうね、口角泡を飛ばす勢いで激怒しまくり。「じゃあ、どうやったらいいんですか?」と素直に聞くが、激昂している宿ちゃんは当然教えてくれるわけがない。

「うるせーんだよ!さっさとやれよ、コノヤロー!!!」

ラチがあかないのだ。手順を教えてもらえればワシだってバカじゃない。すぐに覚えられる自信はあった。でも宿ちゃんは一向に教えるつもりもなく、ただただ顔を真っ赤にして激怒し続けていた。

たぶんこういう人は「習うより慣れろ」で世の中を渡ってきたのだろうと思う。先輩に理屈抜きに怒られながら身体で仕事を覚えてきたのに違いない。だから他人に教えることに慣れていない。というより、たぶん教えられないのかもしれない。でも本人はそうやって仕事を覚えてきたという自負があるから、「なんでオメーはできねーんだよ!コノヤロー!」となる。まあ、気持ちはわかるけどさ。

理由もなく怒られれば、フツーはケンカになる。でも当時のワシは新人。自分に少しでも非があれば絶対に腹を立てなかった。もし対等な立場なら、いくら茹でダコのように激怒した宿ちゃんであってもブチのめしていただろうけど。

それにしても今日あのようなオヤジは見かけなくなった。いや、土建業や運送業にはまだいるのかもしれないな。名物オヤジとして…。ふと懐かしくなった。今頃、宿ちゃん、元気なんだろうか。
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文章修行の思い出

2006-05-25 04:35:21 | 回想する脳みそ
修行なんてオーバーなものじゃないが、自分の文章を意識して書くようになったのは19歳から20歳にかけてだったと思う。当時、ある先生に師事して個人的に文章の書き方を学んでいた。とはいえ、手取り足取り教えていただいていたわけではない。彼はどちらかといえば放任主義で、自分のスタイルを押しつけることは、まずしなかった。

しかし、それだけに書き手の責任には極めて厳格で、このフレーズのなかでこの単語を用いるのは適切でないとか、キミがそのような論を述べるからには読み手を納得させるだけの根拠を示す必要があるなど、かなりやり込められたこともあった。ならば、どうすればよいのかと尋ねても決して答えは返って来なかった。「それはキミ自らが考えることだよ」と。

困ったねえ、そういわれても皆目見当がつかないのだから。でも何らかの答えを提示するまで彼は次の課題を与えてはくれなかった。もちろん間違った答えを提示しようものなら、なぜそのような答えを導いたのかと、これまた糾弾される始末。だから指導の際には本当に毎回が真剣勝負だった。

その結果、自分の文章が良くなったかはわからない。現在でも自分の文章なんてホント下手だなあと毎度ガックリくる。もっと品よく流暢に書けないものだろうか。うーん、たぶん死ぬまで書けないだろうな。

ステキな文章が書けるというのは別にして、あの時学んだのはまず「自分でとことん考えること」だった。他人に文章を推敲してもらうのでなく、表現から用法など、すべて自分で吟味する癖がついたのは今にして思えば幸いだった。

フリーでやっている現在、基本的に誰もワシの文章を推敲する者はいない。だから原稿を書き始める最初からメールで送る最後まで、すべて自己責任ということになる。もっとも、こんなブログなんて大して見直してないからホントいい加減なんだけど。

(おまけ)


夏に近づいているねえ。写真は午前3時50分ころの東京。もう、こんなに明るいのだ。三日月がもうちょっとキレイに写っていればなあ…。
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師匠のブログ

2006-05-22 03:52:11 | 回想する脳みそ
リンクを辿って行くと思いも寄らないサイトに出くわすことがある。先日遭遇したのは、ナント、むかし習っていたピアノの師匠のブログだった。実名で出ているので間違いない。あることがきっかけで師匠とは音信不通になっていたが、よもやこんな形で「再会」するとは…。

意外だったのはその内容である。ピアニストが書いているのだから、内容は当然音楽のことだろうと思っていた。ところが、豈図らんや扱っているテーマは音楽以外のこと。社会問題だったり、タバコの害について、などなど。

まあ、考えてみれば音楽家だから音楽のことを書かなくちゃいけないなんて理由はどこにもない。それこそ読み手の勝手な先入観なのだ。おそらく彼は芸術家としてでなく、ひとりの人間として意見をそこで述べているのだろう。そのスタンスに敬服。いや、いかにも彼らしいなと思った。

確かに今は音信不通になっているが、師匠とは大体において基本的にウマが合った。音楽についての考え方もそうだったし、それ以外についても真っ向から対立することはまずなかった。まるで鏡を見ているかのようで、「アンタはワシか!」と思うことも、しばしば。

師事していたころは1回60分のレッスンだったが、ピアノについて指導された記憶がほとんどない。与えられた曲を一通り弾くと、あとは世間話で終わる。一体何をしにレッスンに行っているのかわからないこともあった。ピアノについて何も教えてくれないのになぜ高いレッスン料を払わねばならないのか、と。

誤解のないように記しておくが、別にワシはピアノが上手だったわけじゃない。もし指導する必要のないほどの腕前だったら、ワシはとっくにピアニストとして世界中を股にかけて……いやいや、妄想はこれぐらいに。

当時を推測するに、彼はきっとワシと話したかったのだと思う。ワシはピアノの腕はダメダメだったが、脳みそは発達していた。当時の彼の弟子たちもさほど優秀な奴はいなかったが、師匠とディベートできるほどの明晰な奴もいなかった。当時はまだ気鋭のピアニストとして活躍していた彼のことだ。演奏はもとより音楽論も誰かに披露したかったのではないか。そして、そのための「いけにえ」がワシだった…。

マトモなレッスンは受けられなかったが、ワシは彼を恨んではいない。むしろ今にして思えばアノ時の話は現在の仕事の上で大いに役立っている。世の中に無駄なことはないというが、これもそのひとつなのかもしれない。

ありがとう、師匠。感謝してます。
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液体窒素の思い出(後編)

2006-04-13 04:17:37 | 回想する脳みそ
ある夏の日のこと。新しいコースを覚えるため社員同乗で4トントラックで出発。そのトラックにはもちろん液体窒素の冷凍装置が完備されていた。といっても、この段階でワシはまだその冷凍装置のことすらロクに知らなかった。

社員に教えられるまま、荷下ろしする最初の場所に到着。「仕事は迅速に」がモットーのワシはすぐさま運転席から飛び降り、風のような速さでトラック後方に向かう。そして勇者のごとく扉を開けて中に突撃しようとした。まさにその瞬間、社員から怒号が!

「バカ! お前、死ぬぞ!」

いきなりバカ呼ばわりですよ。それに「死ぬぞ!」とは何ぞや? もう頭の中で「?」が14個ぐらい点滅し始める。あ、個数についてのツッコミはしないように。要するに何が何だかさっぱりわからなかったというだけのこと。

ま、勇者にも理性というものがある。ここはひとつ社員から理由を聞こうじゃないか。

説明によると、庫内には窒素が充満している。だから扉を開けて庫内の窒素を排出してからでないと、中に入るのは危険なのだ、と。

「ち、窒素が充満している?」

そこで初めてこのトラックの冷凍装置のことを知る。なるほど、ドライアイスのように流れ出てくる煙は窒素なのか。もちろんドライアイスは固形の二酸化炭素なのだけれど。ちなみに素手で液体窒素に触れると低温火傷を起こして大変な目に遭う。ご注意を。

ここで知ってるようで知らない豆知識。なぜこの気体は窒素というのか。これを命名したのはイギリスの化学者・物理学者ダニエル・ラザフォード(1749-1819)だという。1772年、この気体に生物を入れると窒息して死ぬことを発見し、「有毒な空気(noxious air)」と呼んだらしい。元素記号が「N」なのはもちろんこれに由来する。ただし窒素が元素であることを発見したのはパリの化学者アントワーヌ・ラヴォアジェ(1743-94)なのだが。

ま、そんなネタはさておき、あの頃大いに不満だったのは次のような事実。つまり商品は完璧な冷凍システムで管理されていたにもかかわらず、それを輸送するトラックにはエアコンはおろかパワステすら装備されていなかったこと。あれは地獄だったねえ。だって交差点を曲がるたび渾身の力でステアリングを回さなければならんのよ。そうすると交差点ごとに滝のような汗が流れてくる。もうパワープレイ以外の何者でもない。

パワステに慣れてしまった今では信じられない話。昔のトラック乗りがみなマッチョな奴ばかりだったのはそういうわけなのだ。
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液体窒素の思い出(前編)

2006-04-12 06:34:37 | 回想する脳みそ
昔のトラックの冷凍装置には液体窒素がよく使われていた。これは燃料を給油するのと同様な方法で車体の側面にあるバルブへ液体窒素を注入するのだ。液体窒素による冷凍装置だと庫内はあっという間にマイナス40度まで下がる。そのため夏場、貨物室のドアを頻繁に開閉しても庫内の温度はすぐに設定した温度に戻る。つまり食品の鮮度が落ちないというわけだ。

ところが、現在のトラックでは液体窒素による冷凍装置はほとんど使われていない。その理由は3つほどある。ひとつは液体窒素の補給基地が限られていること。ガソリンスタンドのようにどこにでも燃料を補給するところがあれば何も問題はない。しかし液体窒素の補給基地なんてそれこそマイナーな世界。よほど設備の整った場所以外には置かれていないのが実際のところだ。

2つ目の理由はランニングコストがかかること。バブル時代ならともかく、輸送業者としてはできるだけコストを下げたい。ところが液体窒素はかなり高価なのだ。いくら窒素方式の冷却性能が高いといっても、業者にとってはもっと安価な冷却装置に移行せざるを得ない。

3つ目の理由としては常に保守点検をしなければならないこと。液体窒素の補給基地を維持するには法律に基づいた保守点検が義務づけられている。これも輸送業者にしてみればコストがかかるのだ。

そんなわけで現在の冷凍装置は機械式が主流となっている。機械式というのは要するに電気冷凍庫の親玉みたいなものと思えばよい。これだとトラック自体の発電装置が壊れない限り冷凍し続けることができる。もっとも、機械式にはメインエンジンで作動するものとサブエンジンで動かすものとがある。ただしメインエンジン方式だとトラックのエンジンの停止とともに冷凍システムも停止してしまうので冷凍輸送には不都合な面がある。

それに対し、サブエンジン方式は冷凍装置専用のエンジンで作動するので、たとえメインエンジンを切っても庫内の温度が上昇することはない。そのため多くの大型トラックではサブエンジン方式が使われているのだ。

あらら、なんだか説明が長くなってしまったな。すみません、肝心の思い出は次回ということで。
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消去された過去

2006-01-13 08:26:52 | 回想する脳みそ
クルマが空腹状態だったのでスタンドへ行く。満腹にしてやったらゴキゲンになり、「どこかへ行こうよ!」と誘って来た。ならばと軽くドライブすることに。

向かったのは、むかし住んでいた国立。良く言えばロッジ風、悪く言えばホッタテ小屋のような建物が敷地内にいくつもある、そんなアパート。当時のワシはまだ音大に通っていなかったが、住んでいた場所はほとんどが国立音大生だった。だから隣近所から音が聴こえてくるのは当たり前。かなり前に「ピアノ殺人事件」なる出来事があったが、ここでそんなことはあり得ない。殺人が行なわれるとしたら、きっと「相討ち」になること間違いなし!

周囲の下手糞なピアノを耳にしていたらワシもピアノが弾きたくなり、バイトのカネで中古のピアノを購入する。それも今では希少価値になっている「象牙の鍵盤」をもった楽器だ。いいねえ、象牙の感触ってぇーのは…。

隣の女子大生が弾く、想像を絶するほど下手なラヴェルの《ソナチネ》を向こうを張ってやろうと、こちらはリストの《超絶技巧練習曲》や《巡礼の年》、それにシューマンの《交響的練習曲》などを弾いたな、そういえば。少なくとも「音の厚み」ではワシの圧倒的な勝利だった(笑)

そんなことを思い出しながら、クルマは国立へ到着。ところが、住んでいた場所に来ると、異変が!

な、な、なんと!更地になってるではないか!そして「売却地」の看板が!おいおい、どうなってるんだ?あの、欲張りな大家はどうしたんだろう…。いきなりの変わりようにショックを受ける。証拠写真を撮る余裕すらなかった。

思い出のたくさん詰まったあの建物は、もうない。うーん、なんだか寂しいねえ。
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ドカチンの思い出

2006-01-05 03:27:41 | 回想する脳みそ
「ギャートルズ」に登場したゴリラだよな?…って、おいおい、そりゃ「ドテチン」でしょーが。

軽いノリ・ツッコミをしたところで本題に入る。何の目的もなくただ郊外をクルマで流していたら、ある場所に来た。そのとき突然遠い記憶がよみがえる。

そこは学生時代にバイトしたことのあるドカチンの会社だった。会社ったって、フツーの家なんだけど。当時、ここには書けないさまざまな事情でカネを使い果たしてしまったワシは、もはや日銭を稼ぐしかなかった。で、辿り着いたのがここだったのである。

今はどうか知らないが、当時この会社は昔気質の「正統派」だった。正統派ったって別に大したことはない。テレビで見るような腹巻をした親方がいて、夕方仕事が終わる頃になるとドカチンどもを集めて腹巻に隠しておいた「日当」を配るのである。

ドカチンのカロリー消費量はハンパじゃない。特にワシがやった真夏の時期は冗談抜きでキツかった。カネがなくて、ロクにモノを食ってないから力が出ない。そんな状況でツルハシを振りかざすなんて、まさに自殺行為に等しい。

おまけに痛いほど照りつける太陽の光。貧血になるなというほうが無理。いくらヘルメットを被っててもフラフラしてくる。そうなると仕事どころじゃない。

ちょっと体力を回復させようと、盛り土のあるところに隠れて休んでいたら、すかさずスピーカーから親方の声が…。

「はーい、その盛り土のところで休んでいるキミ!だめだよ、サボッてちゃ!」

うわっ、全部見られてる…。絶対に見えないと思って隠れてたのに。チェックされてるなら休憩するわけにもいかない。意識朦朧となりながらも仕方なくツルハシを握る。だから疲れたことは覚えていても、どんな作業をしたのかは全く記憶にない。思い出すのは親方が腹巻から取り出した「日当」をもらったことだけ…。

いくらだったかな。確か13,000円だったような気がする。当時としては悪くない金額だったけど、身体はボロボロ。

それにしてもあの仕事を何十年と続けている赤く「酒焼けした」オッチャンたちは心底スゴイと思う。仕事の終了とともに酒をカッ食らい、品のない大声で「よぉ、よぉ、ニイちゃんよぉ」と叫ぶ。あたりに憚ることなく「ドハハハハ」と笑ったかと思うと、突然意味もなく「んだとー?コノヤロー!」とケンカを始めたりする。憎めない人種だ。

でも、翌朝6時にはちゃんと会社の前にいる。そして過酷な労働を黙々とこなす。信じられない。スゴイとしか言いようがない。マネしようとは思わないけど。
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ベヒシュタインで《黒鍵》

2005-12-25 16:46:05 | 回想する脳みそ
上京した頃の夢を見た。当時は部屋にピアノがなかったので、どこかで練習させてもらうしかなかった。時間単位で練習させてもらえるのは楽器店か、もしくは「ピアノ練習所」。安いところだと1時間300円で練習させてもらえた。

とはいうものの、カネのない学生にとって1時間300円は大きい。ましてや練習が1時間で終わるわけがない。気づけば2時間から3時間なんて当たり前のように過ぎていた。

さすがに困ったなと思っていた時、ある人から有り難い話を聞く。なんでも、ある婦人が無償で自宅のピアノを弾かせてくれるというのだ。しかも時間無制限で。

今ならば、「そんなウマイ話なんてあるものか。きっとウラがあるに違いない」と疑うだろう。だが、当時のワシにしてみればこれほど嬉しいことはなかった。本当に申し訳ないとは思ったが、ご好意に甘んじることにした。

このお宅は婦人がピアノを教えておられるいわゆるピアノ教室である。しかしワシに提供して下さるのはレッスン用のグランドピアノではなかった。婦人が子供時代から使用していたというアップライトピアノである。ピアノが弾けるならそれで十分すぎるほど幸せ。それはお宅の2階の一室にあり、いつも気後れしながら練習させてもらっていた。

驚いたのは、そのピアノがベヒシュタイン製だったこと。ベヒシュタインのピアノの存在は知識として知っていたが、当時はまだ実際に弾いたことはなかった。よもやこんなところで弾くことができるとは思わなかったし、嬉しかった。

その響きは婦人の性格のごとく明るく温かかった。毎回弾かせていただくたびに感謝しつつ、時間を忘れて練習した。

このころはすでにピアニストになる夢は捨てていたが、なぜかショパンのエチュードを練習していた。記憶では27曲すべてそこで練習したはずなのだが、昨日の夢ではなぜか作品10-5である《黒鍵》を練習しているシーンのみ。何なのだろう。何か意味があったのだろうか。

無償で弾かせていただいたのは1年ほど。その後ワシは引っ越してしまい、自然に音信不通になってしまった。果たして今あの御婦人はどうされているのだろうか。当時婦人は50代後半ぐらいだったと記憶しているが、お元気なのだろうか。できるだけ早い機会に訪ねてみたいなと思うこのごろだ。最後にきちんとした形でお礼をしなかったし、何よりあの練習のおかげで今のワシがあるのだから…。
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「ムーグ」氏死去

2005-08-24 02:43:25 | 回想する脳みそ
シンセサイザーの開発者として知られる Robert Moog(1934-2005)が亡くなった。アサヒ・コムの記事では「モーグさん」と紹介しているが、ワシの感覚からすれば「ムーグ」である。

ワシの青春時代、ムーグといえばシンセサイザーの代名詞みたいなもの。「いつかはクラウン!」という昔のCMじゃないけれど、シンセ・フリークであれば「いつかはムーグ!」という憧れの気持ちがあった。ムーグ・シンセサイザーのことを知りたければ「ムーグとムーグ・シンセサイザーのサイト」をどーぞ。

しかし、ヘタレなワシは結局「ムーグ」を入手することができなかった。その代わりに購入したのは1986年に発売されたローランド社の「Juno106」。これは当時はアナログ・シンセとしてなかなか人気のあった楽器である。今でも時々アンプにつないでは遊んで弾いている。

もっとも、当初欲しかったのはYamahaが1983年に発売したディジタル・シンセ「DX-7」だった。でも、周囲のキーボード奏者はみなこれを持っていたので、何もワシまでそれを購入することはなかろうと断念。だって必要とあらば頼んで借りればいいわけだし。

アナログ・シンセの魅力は何と言っても音色を自分で作れることだった。たとえばVPOとかVCOといったツマミをコントロールすることで様々な音を出すことができた。「他にはない自分だけの音」が欲しければ、当時は「JUNO」が最も手軽な楽器だったのである。手軽といっても当時の値段で128,000円ぐらいだったが。支払はもちろん分割で(苦笑)

そう、このシンセはJR東中野の駅前にあった「アンディーズ・ミュージック」という楽器店で購入したんだっけ。現在はもう閉店していて、どうなってるのかなと思っていたら何と下北沢で「ANDY'S GROUP」としてやってるらしい。なーんだ、あるじゃん。当時の記憶では、男3兄弟で経営しており、末弟が確かジュリアード音楽院のサックス科を卒業したとかで、その頃は店頭でよくサックスを吹いていたりした。いやあ、懐かしいねえ。機会があれば今度訪ねてみようかな。

付録:「ソ連製のシンセサイザーのサイト」←音が聴けます!
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特別な日

2005-06-19 21:47:22 | 回想する脳みそ
脳みそには理性がある。その理性がどうしても言うことを聞いてくれない。理由はわかっている。今日という日がワシにとって特別な日だからだ。

情緒が不安定になってきたのは昨日の夜10時半頃から。4年前のこの時刻、入院していた大切な人が危篤になる。懸命の措置も甲斐なく、翌日の明けがた息を引き取った。この一連の記憶は恐ろしいまでに脳裏に焼き付いている。もともと記憶力は良いほうであるが、あまりに衝撃的なこの出来事。きっと自分が死ぬまで忘れることはないだろう。

理性が言うことを聞いてくれないと書いたのは、この時の記憶が脳みそを支配したからだ。

ベッドの周りに集まった家族は為す術もなく、ただただ呆然としていた。やれることといえば本人の身体をさすること。心臓は、鼓動が次第に弱くなっていくため、十分な血液を身体中に送ることができなくなっていた。そうなると心臓に遠い場所から鬱血が起こり、肌の色はみるみる青紫になってゆく。

でもこの時点で我々はまだ本人は恢復するものと思っている。いや、恢復して欲しいという願望がマッサージという行為をさせたに違いない。現に青紫になろうとしている部分をさすると確かに元の肌色に戻る。しかしそれは一時的なものであって、マッサージを止めるとすぐまた変色し始める。

そんなことをしても、もはやどうなるものでもない。脳みそではわかっているのだ。でも、奇跡が起こるかもしれないではないか。奇跡が起こった時、皮膚が青紫のままだったら本人があまりにも可哀想。だから奇跡が起きることを願いつつ、また奇跡が起きて欲しいと念じながら時間を忘れ身体をさすり続けたのだ。

しかし奇跡は起きなかった。願いが挫かれた時、それは本当の悲しみとなる。もう二度とあの笑顔を見ることはないし、話することすらできないのだ。ワシのすべてを理解し、いつも優しい心遣いをしてくれたあの人は逝ってしまった…。4年も前のことなのに、それはつい昨日起きたことのように感じられる。

本当に大切な人を失うということは、想像以上の悲しみであり、衝撃でもある。よく「悲しみは時間が解決してくれる」というが、それはケース・バイ・ケースだと思う。もし亡くなった人がワシの心に占める割合が少ない人なら、その悲しみは時間とともに薄れていくだろう。しかしこの人はそうではなかった。ヘンな譬えだが、目に入れても痛くないほど愛していたからね。うーん、ことによると前世ではワシの子供だったのかもしれないな。(笑)

冗談はさておき、この人はどんな人にも優しかった。だからワシに限らず多くの人が今でも彼女の死を惜しんでいる。結局、一睡もできないまま今日お宅に伺うと、彼女が生前親しくしていた友人から献花が届いていた。彼女は身体こそ小さかったが,心は本当に大きい人だったと思う。みんなから愛されていたんだなあと、しみじみ感じた。
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ああ、海ほたる

2004-12-25 21:45:07 | 回想する脳みそ
もう5年も前のこと。
クリスマス当日の夕方、以前バイトで知り合いになった年下のS君から電話。
「あのー、今晩ヒマですか?」
「おう、別に何も予定はないぞ」
「そうですか…じゃあ海ほたるに行きませんか?」
「行くのは構わんけど、野郎2人で?」
「いえいえ、ギャルを2人ほど調達して行きますから…じゃ、あとで」
そうして電話は切れた。
S君はどうやら合コンをしたかったらしい。
しかしなあ、いい歳して合コンとは…

2時間ほどすると再び電話が。
「あのー、すぐ近くまで来ましたんで、お願いします」
「おう、わかった」

彼のクルマに近づくと、確かにギャルが2人、後部座席にいた。
ワシは別にその子たちと「いい仲」になろうなんて思ってなかったら、普通に会話する。
聞いてみると2人は20歳前後だという。
おまけに、ちとラリってて普通の話が出来ない。
そんなのを調達してきたS君もまた、元は暴走族で、シンナーも多少たしなんだことのある奴。
さあて、この雰囲気の中にワシはどうやって溶け込めば良いのか…

そんなことを考えていると、海ほたるに到着。
近年は、この時期になるとここも混雑するようだが、当時はガラガラだった。
そりゃそーだわな、通行料金があの頃は4,000円だったからねえ。
走ってるクルマも、ほとんどない。
まさにマイ・ロードなのである。
だから海ほたるに来るクルマも少なかったというわけだ。

そのときはやたらと風が強くて、ノンビリと夜景を楽しむなんて余裕はなかった。
確かに綺麗な夜景ではあったが…
で、ひと通りそこにある売店や店舗を見て回り、メシもそこで食った。
しかし、相変わらずラリったギャルたちとは話が噛み合ない…

結局、盛り上がることなくギャルたちを家まで送ってから帰宅した。
ところで、S君は今どうしてるんだろうな。
実家の清掃会社の跡取りで、もう社長になったようだけど。
いまいち経営者としての貫禄もなく、頼りない奴なんだけどねえ。
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鳥さん、ナムナム

2004-12-23 18:09:09 | 回想する脳みそ
この時期、大量の鳥さんが天に召される。
そう、鳥さんにとっては憎きクリスマスだからだ。
人間の都合で殺戮される無数の鳥さんたち。
こりゃもう、「いけにえ」以外の何ものでもない。

クリスマスが憎いのは鳥さんを扱う業者も同じ。
昨日から今日にかけて、業者は地獄の日々なのだ。
まあ、会社にとってみれば売上が伸びるからウハウハなんだろうけど。

ワシは昔、●ンタッキー・フライド・チキンの肉を運ぶバイトをしていた。
13kgで一箱のなかには、冷凍された鳥さんたちが安らかに眠っている。
それを毎晩2トン車の保冷トラックに積んで8つほどの店舗に配送するのだ。
通常なら、そんな感じ。
ところが、まさに今日などは配送センターは戦場と化す。
なぜなら明日一日で消費される鳥さんは、ひとつの店舗あたり2トン車1台分に相当するから。

2トン車だからといって、積載量を守るわけじゃない。
単純計算だと153箱が法定積載量なのだが、この日ばかりは過積載が当たり前。
多い店で、200箱なんてこともあった。
繰り返すが、これが次の日にすべて売れきれてしまうのだ…ひとつの店で。

確かに配送する店舗がひとつだから、ラクといえばラクである。
しかし、満載に積んでひとつの店舗に到着するや、いっぺんにそれらを降ろすのだ。
いっぺんに降ろしてみ?
握力はなくなるわ、腕の筋肉はパンパンになるわ…
もうね、瞬間的に両手障害者になるわけですよ。
でも、すぐに会社に戻らなきゃならない。

今はデフォルトで2トン車にもパワステが装備されているが、当時は必ずしもそうではなかった。
ウチの会社はケチだったので、全車「おもステ」である。
普通の状態でもハンドルが重いのに、握力のない手で運転する恐怖。
いやー、できれば交差点を曲がりたくなかったねえ(苦笑)

結局、その日は3回ほどその繰り返しだった。
カネにはなったが、死ぬほどツラかったね。
しかし、世の中の皆さん !
信者でもないのに、鳥さんを食い過ぎやで、まったく。

きっと今頃、業者は泣きながら鳥さんを降ろしているんだろうな。
うん、わかるよ、その気持ち…
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