修行なんてオーバーなものじゃないが、自分の文章を意識して書くようになったのは19歳から20歳にかけてだったと思う。当時、ある先生に師事して個人的に文章の書き方を学んでいた。とはいえ、手取り足取り教えていただいていたわけではない。彼はどちらかといえば放任主義で、自分のスタイルを押しつけることは、まずしなかった。
しかし、それだけに書き手の責任には極めて厳格で、このフレーズのなかでこの単語を用いるのは適切でないとか、キミがそのような論を述べるからには読み手を納得させるだけの根拠を示す必要があるなど、かなりやり込められたこともあった。ならば、どうすればよいのかと尋ねても決して答えは返って来なかった。「それはキミ自らが考えることだよ」と。
困ったねえ、そういわれても皆目見当がつかないのだから。でも何らかの答えを提示するまで彼は次の課題を与えてはくれなかった。もちろん間違った答えを提示しようものなら、なぜそのような答えを導いたのかと、これまた糾弾される始末。だから指導の際には本当に毎回が真剣勝負だった。
その結果、自分の文章が良くなったかはわからない。現在でも自分の文章なんてホント下手だなあと毎度ガックリくる。もっと品よく流暢に書けないものだろうか。うーん、たぶん死ぬまで書けないだろうな。
ステキな文章が書けるというのは別にして、あの時学んだのはまず「自分でとことん考えること」だった。他人に文章を推敲してもらうのでなく、表現から用法など、すべて自分で吟味する癖がついたのは今にして思えば幸いだった。
フリーでやっている現在、基本的に誰もワシの文章を推敲する者はいない。だから原稿を書き始める最初からメールで送る最後まで、すべて自己責任ということになる。もっとも、こんなブログなんて大して見直してないからホントいい加減なんだけど。
(おまけ)
夏に近づいているねえ。写真は午前3時50分ころの東京。もう、こんなに明るいのだ。三日月がもうちょっとキレイに写っていればなあ…。
しかし、それだけに書き手の責任には極めて厳格で、このフレーズのなかでこの単語を用いるのは適切でないとか、キミがそのような論を述べるからには読み手を納得させるだけの根拠を示す必要があるなど、かなりやり込められたこともあった。ならば、どうすればよいのかと尋ねても決して答えは返って来なかった。「それはキミ自らが考えることだよ」と。
困ったねえ、そういわれても皆目見当がつかないのだから。でも何らかの答えを提示するまで彼は次の課題を与えてはくれなかった。もちろん間違った答えを提示しようものなら、なぜそのような答えを導いたのかと、これまた糾弾される始末。だから指導の際には本当に毎回が真剣勝負だった。
その結果、自分の文章が良くなったかはわからない。現在でも自分の文章なんてホント下手だなあと毎度ガックリくる。もっと品よく流暢に書けないものだろうか。うーん、たぶん死ぬまで書けないだろうな。
ステキな文章が書けるというのは別にして、あの時学んだのはまず「自分でとことん考えること」だった。他人に文章を推敲してもらうのでなく、表現から用法など、すべて自分で吟味する癖がついたのは今にして思えば幸いだった。
フリーでやっている現在、基本的に誰もワシの文章を推敲する者はいない。だから原稿を書き始める最初からメールで送る最後まで、すべて自己責任ということになる。もっとも、こんなブログなんて大して見直してないからホントいい加減なんだけど。
(おまけ)
夏に近づいているねえ。写真は午前3時50分ころの東京。もう、こんなに明るいのだ。三日月がもうちょっとキレイに写っていればなあ…。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます