goo blog サービス終了のお知らせ 

ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

クルマの耐久性

2004-12-16 19:14:39 | 回想する脳みそ
近年のクルマは壊れにくくなったものだ。
壊れないとはいえ、もちろん不具合は生じる。
しかし、昔だったら道ばたでオーナーが「┐( ̄ヘ ̄)┌ ヤレヤレ」という光景をしばしば目にしたが、最近ではあまり見かけない。
その意味でいえば、壊れにくくなったというのも、あながち間違いではなかろう。

ところで、クルマを買い替える基準は何なのだろうか。
「単にデザインに飽きた」「修理代がかさむようになった」「距離を走った」etc.
さまざまな理由があるに違いない。
たまたま目にしたこの記事のオーナーは17万キロ走って、愛車を手放すことにしたという。
そうだねえ、17万キロといえば乗用車ではかなりの走行距離だよな。
おそらくほとんどのオーナーは、10万キロぐらいで買い替えるんじゃないだろうか。
まあワシも同じような感じではあるが。

整備士の話によると、最近の乗用車だったら30万キロぐらい走っても大丈夫らしい。
エンジンはそれほど壊れにくくなっているという。
もっとも、30万キロ走るとなると、一般のオーナーならウン十年も同じクルマを所有することになるんだろうけどね。
そうなれば、エンジンは大丈夫でも他の部分に不具合が出るようになる。
だから買い替えようということになるんだろうな。

乗用車だったらそうかもしれない。
ところが、トラックというのは昔から頑丈にできている。
頑丈なのはボディーだけではない。
エンジンだって、そう簡単に壊れたりはしないのだ。
大昔、ワシが学生時代にアルバイトで乗っていた4トン車なんてキョーレツだったもの。

営業車というのは、基本的に「始業前点検」というのをすることになっている。
走り始める前に不具合箇所がないか点検するのだ。
点検欄には「走行メーターの距離」なんて項目もあった。
えーっと…このトラックは何キロかな?
見ると、目ん玉が飛び出そうになった。
な、な、なんと、60万キロも走っているではないか !
職場の上司にそれを報告すると、
「なーに、大事に乗れば100万キロぐらいは乗れるんだ。心配すんな」
ほー、そういうもんなのか…すげーな、トラック。

とはいえ、さすがにそれだけの距離を走っているとエンジンのパワーはない。
泣けてくるほど、ないのだ。
東名高速の御殿場の坂なんて、うめきながら登るしかない。
しかも、時速60kmがせいぜい。
さすがに周囲の車に申し訳ないので登坂車線を走る。
それでも後ろから大型トラックが「おせーぞ、コラッ」とばかりにパッシングの嵐。
「無理やっちうねん ! 」

ワシの勤務していた運送会社には厳しい社則があった。
一般道ならば、最高速度は50km/h、高速道路だと80km/h以上出してはいけない。
おまけにエンジン回転も、どのギヤであっても1500回転までと決まっていた。
営業ナンバーのトラックには「タコグラフ」が装着されていて、速度と回転数が記録されるようになっている。
だから絶対にインチキはできないのだ。

エンジンというのは、「まわさないと」どんどんパワーが落ちてゆく。
それに加えて、ウン十万キロも走っていれば馬力が落ちるのも当然なのだ。
でも、会社は燃費などのことを考えて「のんびり走れ」という。
わからんでもない。
しかし、登坂車線で煽られるワシの身にもなってくれよ。
いくらワシのトラックが4トン車とはいえ、相手は大型だぜ。
こえーよ、マジで。
コメント

ブルネイ

2004-09-10 23:59:36 | 回想する脳みそ
我が国の「さるお方」がブルネイ皇太子の挙式出席のため、同国に赴くというニュースが流れる。
さるお方は、ちょうど渦中の人なので、マスゴミもヨダレを垂らしてネタに飛びつく。
ネタはまだあった。
ブルネイのほうの花嫁が現役の女子高生という、これまたウハウハなネタ。
ある局では、ご丁寧に花嫁の生年月日まで報道しておった。
そんなもん知ってどーすんねん。

遠い昔、そうだな…20年ぐらい前のことである。
ワシはハウスクリーニングのアルバイトをやっていた。
つまりは「掃除屋さん」なのだが。
で、どういう経緯か知らんが、そこの社長がブルネイ大使館の日勤の仕事を取って来た。
掃除業界でいうところの「日勤」とは、トイレ、床、入り口などの共用部門を毎日掃除することを意味する。
日勤をするのは、だいたいオバチャンと相場が決まっている。
すなわち、オバチャンたちは、日勤要員として雇われるわけだ。

ところが日勤のオバチャンに緊急事態が生ずると、我々がやるハメになる。
で、その通りになった(泣)
不幸の矢は何の躊躇もなく、ズバババーンとワシに刺さりよったのだ。
所詮バイトなんて雑用係さ。
社長に言われるがままに、コキ使われるだけの…

ともかく、その日から毎日始発電車に乗って山手線の大崎駅へと向かった。
当時その大使館は大崎から歩いて、ソニーの裏の坂道を上ったところにあった。
早朝といっても、大使館に行けば当然職員はいる。
もちろん、日本語なんて理解できないアホばかり。
しゃーないので、用がある時はこちらが英語を喋るしかない。
ったく…日本にいるんだったら、日本語の勉強ぐらいしろっての !

報道されているように、ブルネイはお金持ちの国である。
その大使館に据えられていた調度類なども、そりゃアンタ、金ぴかでしたでー。
さすがに便器までは金ぴかではなかった…、いや、どうだったかな、金ぴかだったかも。

その日勤の仕事は、4ヶ月ぐらい続いた。
さすがにウンザリしたことを覚えている。
コメント

隅田川の花火見物

2004-07-31 11:25:00 | 回想する脳みそ
今日は恒例の隅田川花火大会の日。
でも、行かないけどね。

いや、せっかくなので、12年ほど前の思い出をひとつ。
ワシは特に花火が好きではなかったが、仕事上のおつきあいで花火見物に呼ばれた。
ご存知のように、花火大会当日の浅草周辺は人だらけになる。
そのためクルマで行ったら、どーにもならない。
仕方なく都営浅草線(だったかな?)に乗って行く。

案の定、夕刻の浅草は、人、人、人。
軽いめまいを覚えつつ、連れの人に誘導される。
人ゴミをくぐり抜けながら、しばらくしてその人は言った。

「ここです」
「えっ? いや、冗談でしょ?」
「じゃあ、入りましょうか…」
「ちょ、ちょっと…」

ワシが何故ためらったのかというと、そこはラブホテルの入り口だったから。
おまけに、その相手とは男だったから(笑)
ワシが「しおらしく」モジモジしていると、その人が

「早くしないと、花火が始まっちゃいますよ」

ますますワケがわからん…

ま、しゃーない、覚悟を決めてついてゆく。
エレベーターに乗ってからも、ワシの心臓はバクバク状態。
ところが、停止した階は、なんと最上階。

「着きましたよ」
「へっ?」

そう、我々はこのラブホテルの屋上で花火見物をしたのだ。

屋上に出てみると、すでに10人ほどの見物客がいた。
話によると、連れの人の友人の親がこのホテルの経営者なのだとか。
それで、毎年この時期になると関係者を呼んで、隅田川の花火見物をするらしい。
その意味で、ここは特別席なのだ。
ただ、その場所が「ラブホ」の屋上ということを考えなければ…

酒をしこたま飲み、ツマミをがっつり頬張りながら花火を堪能した。

「いやー、今日は最高ですよ。わっはっはっ」
「そうでしょ? いい眺めでしょ? まあまあ、どーぞ」
「おーっとっとっとっ…(/◎\)ゴクゴクッ・・・」

唯一、気まずかったのは、花火を見終わってエレベーターを降りて来た時。
扉が開くと目の前には、コトをいたそうと入ってきたカップルが…

「ワ、ワシら、ホモちゃいまっせ」(滝汗)

ワシが世界の中心で声高に叫んだのは言うまでもない。(もちろん心の中で)

ホロ酔い気分が、いっぺんに飛んだ(泣)
コメント

大切な日

2004-06-19 23:19:03 | 回想する脳みそ
今日は、ワシの人生において大切な人のうちの2人に会ってきた。

ひとりは、もう20年ほどの付き合いになる自動車の整備士のSさん。この人は現在、小規模の修理工場を経営している。ワシとはなぜかウマが合い、およそ三ヶ月に一度はクルマのエンジン・オイルの交換を名目にして会いに行っている。

彼は常にお客の立場になって考えてくれる素晴らしい人だ。実際には優れた腕の持ち主なのに、決して偉ぶったりはしない。そして、こちらの質問に懇切丁寧に答えてくれる。こんにちワシが年甲斐もなく「やんちゃ」な運転をしていられるのは、この人のきめ細かいメンテナンスのおかげであるといっても過言ではない。わざわざ40kmも離れた遠くの工場に行くのは、そのためである。

思えば、カネのない学生時代には本当にお世話になった。普通、修理などをすれば、部品代の他に工賃というものを請求される。しかし、Sさんは決まって「いいよ、工賃はサービスしてあげますから」と言ってくれた。当時彼は民間の整備工場の社員であったが、貧乏学生がいつも心を悩ませたのは「こんなことを会社に内緒で、独断で決めていいんだろうか」ということだった。

でも、Sさんはワシの心配など全くおかまいなしに、せっせと工賃抜きの伝票を切ってしまう。彼がその損失をどう補ったのかは、いまだ不明だ。「困っている時は、お互い様ですよ」と笑いながら言うSさんだが、そのフレーズを聞くたびにワシは彼に対して申し訳ない気持ちで一杯だった。そして心の中でいつも最敬礼していた。いや、今もそうだ。

もうひとりの大切な人は、ワシに無償の愛を教えてくれた人である。けれども、彼女はもうこの世にはいない。そう、今日は彼女の三回目の命日なのであり、その墓参りに行ってきたのだ。

思えば、2001年はワシにとって大切な人を三人失った年である。ひとりは彼女、そして約二週間後にはオフクロ、さらに12月には大学で世話になったW先生と永遠に別れるという体験をした。それぞれの人と別れるのは辛かったが、精神的に最も「こたえた」のは、やはりフィアンセとの別れだった。

しかし我々は長くつきあったわけではない。普通の恋人たちのようにデートをしたのは4ヶ月ほどだったろう。残りの1年半のデートの場所といえば、病室だったな。でも、場所がどこであれ、相手の顔を見ることができるだけで嬉しかった。実際、一度も喧嘩したことはなかったし。

でも、彼女の病状は日に日に悪化していった。そんな体調にもかかわらず、彼女はいつもワシの身体を気遣ってくれていた。ある日病室に行こうとして、ふと脇にある階段を見ると、点滴をぶら下げながら階段を上る彼女がいた。
「な、なにしてんのさっ」
驚いて尋ねると、彼女は
「熱が出たってメールが来たから、早く熱が下がって仕事ができるように、この階段で『お百度参り』をしてたの」
すべてにおいて、この人は、こんな調子だった。自分のことよりも相手のことを気遣うという人だった。

それでも、彼女は何とか持ち直して一時的に退院できるまでに恢復した。医者は「信じられない」を連発した。当時TVでは「ビューティフル・ライフ」というドラマがあった。その内容は我々のケースと酷似していたため、冷静なワシでさえ動揺せずにいられない番組だったのを覚えている。なぜなら、それは結果的に悲劇に終わるというストーリーだからだ。

しかし、彼女の体調は精密検査をしても何ら問題は見られなかった。嬉しかったね。だって、ドラマとは違う展開になりつつあったのだから。「なっ、やっぱりドラマはドラマなんだよ」そう言って笑い合っていた。

ところが楽観したのも束の間、容態は急変。そして、彼女はあれよあれよという間に遠くの世界に行ってしまった…

泣いたね。生まれてこのかた、ほとんど泣いたことのないワシのどこにそんな涙があったのかというぐらい、泣いた。

当時、明治生命のCMに使われていたのが小田和正の「言葉にできない」という曲だった。今でも、それを聴くと反射的に目頭が熱くなってしまう。これは一種のPTSDかもしれないな。

しっかりしろっ、ワシ(キムタク風)
コメント (2)