ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

素晴らしき築造物!…倉橋防災ダム(倉橋溜池)

2022-05-05 06:51:11 | 奈良(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は奈良県桜井市倉橋にある大和川(やまとがわ)水系の倉橋防災ダム(倉橋溜池)を訪れます。溜池とは言っても奈良県が作成した農業用ため池のデータベースによれば高さが37mなので立派なダムといえます(もちろんダム便覧には載っていますが)。倉橋溜池は1957年に農業用溜池として完成。その後2000年に防災ダムとして整備され、2005年にはその周囲にふれあい公園が整備されたそうです(参考)。アクセスは国道166号沿いに「倉橋溜池」の看板があるので、そこを曲がり、道なりに進むと到着します。

まずは右岸から見た様子をご覧ください。



右岸のダム横の手前には「石碑群」が並んでいます。



倉橋防災ダム事業竣工之碑。

その裏側。事業の着工は1987年で、完成は1999年とあります。それぞれ「年度」なので完成は2000年になってから完成したのかもしれません。そうなら、上の説明と矛盾しませんね。


その隣には「顕彰碑」。逆光のため写真ではほとんど読めませんが、こんなことが書いてあります。
旱魃の被害克服のために昭和10年(1935年)に堀江和三郎が期成同盟を結成。食糧増産と農業経営の安定化を図る。昭和15年(1940年)5月、平井宗太郎がその偉業を継ぐも支那事変、大東亜戦争に遭遇。あらゆる苦難と戦いつつ昭和22年(1947年)10月、任期満了で職を辞する。その会長職を継いだのは和三郎の子、堀江文雄で、明治32年(1899年)1月3日に万葉の里、粟殿に生まれ、学業を終えた後、24歳にして城島村長に当選。爾来多くの要職を歴任する。特に農業振興においてはその先覚を知られ、社会福祉地域開発の功績少なからず、昭和28年(1953年)1月倉橋溜池土地改良区設立。初代理事長に就任した。昭和31年(1956年)の文化の日には黄綬褒章を受章。続いて理事長在職の功績を称えられ昭和44年(1969年)11月に勲五等瑞宝章を授与される。昭和49年(1974年)8月2日に病没するや従六位に叙せられる。享年76。文雄は内外の多事多難な組合を統括指導され、広く農政に燦然たる不滅の光を残した功績は実に偉大なものがある。ここにおいてこの偉業を偲び記念のため建碑する。 昭和50年(1975年)12月吉日 倉橋溜池土地改良区


その隣にも石碑群。



「慰霊塔」と読めますが、何の慰霊塔なのかは不明。


「古墳慰霊塔」。倉橋防災ダム事業施行に係わる霊魂慰霊のためと書かれています。ちょっと怖い。




その左側には「延命地蔵尊」。いやいや、なになに?


倉橋溜池も、ついに2014年3月14日から太陽光発電所を設置。



石碑群の先に溜池があります。下流側から見た、いわゆるダム上の様子。



そして、これがダム上。関係車両以外進入禁止とあるので歩いて進みます。



ダム上、中央から見た溜池の様子。



同、下流側の景色。



左岸寄りにあるこの建物は「倉橋ダム管理棟」。あらら、倉橋ダムと名乗っちゃってます。じゃあダムで良いね。





近くには防災ダムとしての案内板。あれれ、ここにはダムの高さは36.5mと記されていますね。上に記したものと50cm違うのはなぜ?



管理棟からダムを見ると、こんな感じ。



管理棟よりもさらに左岸側に洪水吐があります。越流式の立派なものですね。増水時になると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れ、粟原川に流れ込みます。



洪水吐に架かる橋を渡り、左岸の下流側からダム上を見ると、こんな感じ。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな景色。



先ほどの洪水吐に近寄ってみました。おっ、二段階になっていて、低水位の時は写真の左側のところから流れ出るようになっていますね。



ダム下に来ました。よく見ると斜面上に「くらはし」の文字。



ダム下から見た洪水吐の水路です。立派な滑り台みたいな感じですね。



下流側の水路もしっかり作られています。



訪れる前、「どーせ防災ダムだから大したことはないだろう」と思っていましたが、いやいや、どーして。歴史も規模も立派な築造物でした。
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