備中高松城跡での実感は・・

2005-06-20 21:50:42 | The 城
b351ec1d.jpg本稿を”お城シリーズ”blogと考えていいのか、ちょっとためらう。なぜなら、備中高松城は、まったく現存していないからだ。遺構はほとんどない。しかし、日本史上は、かなり重要な城であるともいえる。

また、備中松山城とも近いため、勘違いする人もいる。岡山市からは近いのだが、ローカル線なので、ダイヤは調べておかないと、朝一の飛行機で東京からきて、仕事前に寄り道をしようという向きにはおおわらわになる。

備中高松城は、最後の城主が清水宗治。例の羽柴秀吉の水攻めである。秀吉は兵糧攻めにするため、城の周りに足守川から水を引きこみ外部からの食糧などの搬入を封鎖したわけだ。その結果、清水宗治としては、粘るだけ粘って、援軍である毛利輝元がくるのを待っていたのである。そして、城内の将兵5,000人、秀吉軍30,000人、毛利軍40,000人がこの周辺に集結することになる。時に1582年5月頃である。そして、秀吉は、領地割譲要求と清水宗治の切腹を要求し続けて、さらに信長に大軍の増強要請を行ったのである。

そして事態が大きく動いたのは1582年6月2日の本能寺の変。織田信長が謀殺されたことだ。翌3日には、明智光秀から毛利への密書が途中で秀吉に捕まり、直ぐに切り捨てられる。秀吉としては、いつまでもダラダラと包囲戦を続けることはできなくなったわけだ。早く、京都へ戻り、明智光秀をやっつけないと自分が光秀と毛利の間で、バンズに挟まれたハンバーガーの肉汁状態になってしまう。

ここから、モードを切り替えて、超特急になるのが秀吉の才なのだろうが、即日、講和条約を締結し、城主清水宗治以下数名のA級戦犯の切腹と引き換えに領土の割譲要求を取り下げ、毛利戦終結とする。そして、翌4日の日には水堀から小舟で城外へ出てきた城主以下に腹を切らせて、首を塩漬けにしてしまったわけだ。実際に切腹した場所は城跡の記念碑から僅か200メートル位の場所なので、城内に残る将兵からはすべて、見えてしまうだろう。残された5,000人の将兵は、非常に不安だったろうと想像できるが、もとより秀吉は、あっと言う間に翌5日には京都に向って出陣し、9日からは明智掃討作戦を展開するわけだ。

しかし、明智光秀がいくら「信長のいじめ」にキレてしまって、クーデターに走ったとしても、事後での毛利との連携は考えていたはずで、それがため早馬を飛ばしたのが、結果として裏目に出て、串刺しになった上、塩漬け頭になってしまったのだろう。もし、諜報部員がイチローのようにすばしこい奴だったら、毛利側は和平に出なかった可能性も考えられる。もちろん毛利家は関ヶ原の時のように優柔不断な態度で逆に秀吉と最強連合を組んだかもしれないが、よくわからない。あとで「信長の野望」でシミュレーションしてみることにする。

ところで、ここからはモグラ的な歴史の読み方なのだが、少し違和感を感じていたのだ。つまり、数日、講和を遅らせていたら、いずれにしろ本能寺の変は備中(岡山)にも伝わったはずである。そうなれば、事態はまったく異なる展開になったわけで、少なくとも、水堀を解くことはなかったと思われる。となると清水宗治は愚将ということになる。現地での雰囲気はどうなのかというと、何となくネガティブ感が漂うように感じたのだ。最寄駅(備中高松駅)では、特に案内表示も目だたないし、途中の道も何とはない農業地帯の中の道で、歩いていて不安になる。「歴史的事件の現場だから目印だけにしておこう」というような状態だ。「歴史の恥」というのだろうか。

そして、ネガティブ感がさらに強くなるのが、清水宗治の切腹場所にある供養塔付近である。石塔自体は清水家の末裔の方々が管理されているようだが、その敷地に何棟かの古寺が立つのだが、建屋内に人の気配はない。どういう事情かわからないが複数の寺院の名が読み取れるのだが、その内の一棟は、既に屋根も破れ、自然倒壊寸前の状態である。当時の遺構をほとんど何も残さないこの城にふさわしいといえばそれまでだが、遠く423年前に詠まれた辞世の句もまた暗示的である。

 浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して