日本郵船歴史博物館で一句投稿

2005-06-12 22:09:40 | 美術館・博物館・工芸品
dd286871.jpg横浜関内駅から馬車道を桟橋方向に歩くと、海岸通りに出る。その海岸通り沿いにある白っぽい石造りの郵船ビルを改修して1993年にオープンされたのが「日本郵船歴史博物館」である。

日本郵船は1885年に郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併により設立され、以来120年が経過している。三菱系コンツェルンの中心的会社として、旅客、貨物の両輪で、文字通り日本の旗艦会社であったわけだ。しかし、120年の歴史のちょうど中間点で第二次世界大戦となり、所有船のほとんどは徴用されてしまい、さらにそのほとんどは戦争中に沈没してしまっている。そういう意味で、普通の会社の社史展示室などとは異なり、かなり公共的な内容の博物館になっている(とは言え、戦後は一企業というだけの存在であり、非生産的設備である博物館を維持するのはなかなか大変だろうと推察する)。入場料は500円だ。

展示品の構成はHPでも一部はわかるが、それなりに「歴史を感じて面白い」。ただ、やはり戦前の資料や調度品、舶用品などを収集するのには民間企業では困難があるのだろうか。戦前の事情は少ししかわからない。そして、特に戦時中に徴用された船舶には船員も一緒に戦場へ向かうのだが、結局、そのほとんどが沈没している。社員のうち数千人が戦場で亡くなっているのだが、それは民間企業の犠牲者ということで、国ではなく日本郵船という民間会社が毎年、殉職社員の慰霊という形で行っている。

そして追加的に事実を述べるなら、戦場での死亡率は、海軍よりも船員の方が高いとのことである。おそらく徴用された船の船底に近い機関室(ENGINE ROOM)で24時間交代で任務を果たすのは、軍人では無理で、郵船の社員船員なのだろうが、沈没する時には助かりにくい場所だ。機関室への浸水から沈没が始まることが多いのだ。それに較べて、軍人の方は、甲板より上部の居住区にいたと考えられ、船体から脱出できるチャンスが大きいからだろう。

よく、戦争犠牲者を「海外の戦場でなくなった軍人(兵隊)」と、「国内で空襲でなくなった民間人」とに二分するが、「徴用船の船員」のことは忘れられている。そして、「沖縄の地上戦に巻き込まれた民間人」のことも忘れている。まあ、今まで忘れられていた方々の亡霊が、今さら「国家レベルの慰霊を」といったところで喜ぶものではないだろう。

そして、現在、世は空前の海運ブーム。原因の大半は「中国」に起因し、鉄鉱石、石炭などの鉱石運搬船、急増する石油需要に対応する大型タンカー、そして異常気象によって、農産物の不作・豊作が世界各地で発生し、予期せぬバルカー船による海上輸送を引き起こしている。そのため大船隊の上にさらに巨大投資を積み重ね、内外の造船所に今後5年分の発注残を積み重ねているのが現実なのだ。もちろん、こちらの経営計画は失敗しても、船は沈まない。会社の方が沈むわけだ。

そして私も含めた株主も沈む。泡沫株主はまさに、泡沫となるだけであり、どうでもいいのだが、その場合、日本で最も皇居に近い、江戸城和田倉門前の日本郵船本社ビルを土地ごと手放してもとても足りないだろう。

そして、その皇居に最も近いはずの郵船ビルだが、詳しく観察してみると、一階には、何とテナントが入っているのである。丸ビル側は新生銀行。そして、皇居側には外資系ジャーナリズムであり、経済ニュースの配信を行っている「ブルームバーグ社」である。つまり、日本でもっとも皇居に近い会社はブルームバーグ社であったということか。会社の名前がニューヨーク市長と同じというのには訳があって、20年後にホリエモンが東京都知事になるようなものなのだが、その話はきょうは省略。

さて、博物館でもらった資料の中に、「海・船・港を詠む俳句コンテスト」というのがあり、高浜虚子の4人の孫の方々が審査委員になっているとのこと。さっそく一句二句とひねってみた。優秀作は7月30日(土)に表彰式とのこと。手帳の7月30日の欄に郵船の「ゆ」の字を書き、丸で囲ってみる。落選ならば、スーパー銭湯にでもいくしかない。もちろん表彰式に出場できたら、栄えある俳壇進出第一作としてブログで公開するつもりではある。

さらに蛇足だが、日本郵船の株主総会召集通知がやってきた。平日午前中。半休とって行くことにする。もしも30秒で終わったら、何か大手町でブログネタ拾ってくるかなあ。