言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

山崎正和、最後の評論集『哲学漫想』

2021年02月11日 09時41分27秒 | 評論・評伝

 

 

 何度もブログで触れてきたが、昨年8月19日に山崎正和が亡くなつた。『アステイオン』でその特集号が編まれ、この度最後の評論集が出版された。

 単行本未収録であつたものをまとめたものであり、私は「毎日新聞」は読まないのでその書評が載つてゐたのは嬉しかつた。山崎の書評は要を得た内容(山崎の関心事に引き寄せすぎの要約)でありすぎて、紹介された本を実際に読むとそれほどでもなく、失敗することが多い。それは山崎の評論のスタイルそのままで、ある対象が持つてゐる意味を少々牽強付会に自説の強化に用ゐてしまふところがある。「買ひかぶり」と言つてよいやうな印象がある。否定するよりは肯定することを、といふのが批評のあるべき姿だといふのが山崎の信念であらう。だから、自分にも強くそれを戒めて対象を褒めることにしてゐたやうだ。

 晩年に、産経新聞の「正論」に一回だけ書いたことがあつた。彼の思想からすれば産経新聞は合つてゐるやうで合つてゐない。保守的ではあるが、政治的な発言には慎重である。自分の考へには確信はあるが、「これが正論です」といふスタイルは取らない。むしろ、劇的な効果を狙ふので「朝日新聞」や「毎日新聞」にこそ自説を開陳するといふのが、氏の立ち位置であつたやうに思ふ。それで、本書にはあの「正論」の論考は載つてゐるかなと探してみると、しつかり収録されてゐた。「『平成』最後の一年を迎えて思う」である。「いったい人間天皇には基本的人権があるのかどうか」といふ問ひかけで終はる論考はたいへん大切なものだ。2018年1月4日の朝、これを読み今も切り抜きは取つてある。「正論」にこれを書いたといふことも考へてみたい話題である。

 その他、「アステイオン」に載つた連載(その最後の号の内容は絶筆だと思ふ)も収録されてゐる。その内容は「未完」であるが、整然とまとめられた原稿は、死を直前にして書かれたものとは思へない。見事である。

 ただ、註をつけたいことが一つある。それは、晩年山崎は現代仮名遣ひで書くやうになつたといふことである。著作集は歴史的仮名遣ひであつたのに、である。彼にとつて仮名遣ひとは何なのか。私信においては歴史的仮名遣ひを通したのか、そんなところが気になるのである。

    ★

 今日は、建国記念の日だ。私の勤める学校は、祝祭日は授業があるが、年に一度この日だけは授業がお休みになる。建国記念の日だからといふのではなく、合格者説明会を行ふためである。なので、昼間のこの時間から読書ができる。個人的な思ひで言へば、祝祭日はやはり休みたい。少々疲れてゐるから、こんなつぶやきが出るのかもしれないが。

 

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福田恆存の『明智光秀』

2021年02月07日 12時27分38秒 | 日記

 今日は、NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』の最終回。主筋とは違ふ、架空の人物を当てて都合よく話を合はせていく場面には閉口するが、光秀と信長、そして秀吉といふ三者の関係の色合ひがしだいに濃くなつていくにしたがつて、日曜日の夜の楽しみになつてきてゐた。例年なら、十二月の初旬には最終回を迎へてゐるのに、今期はコロナ禍の影響で二月七日が最終回。終はりは本能寺の変と決まつてゐるので、ハラハラするわけではないけれども、主君を裏切る謀反人の台詞と動きとを味はつてみたい。

 ところで、福田恆存にも『明智光秀』といふ戯曲がある。妖婆によつて語られる未来の姿に引き摺られるやうにして、光秀は死出の道を歩き始める。何やらマクベスのやうでもあるが、じつに巧みに信長、秀吉、そして光秀の関係を描いてゐる。

 「自作解説」には、専ら八世松本幸四郎のためにこの作品を書いたといふことが書かれ、また当時の評価としても歌舞伎役者と文学座との共演、今風で言ふ「コラボ」の妙が取沙汰されたやうであるが、台詞の硬度や動きの機敏さは戯曲を読むだけで驚かされる。これを語れる役者も、この速さで体の動きが取れる役者がゐるのだらうか、そして何よりこの弾丸のやうな劇に観客は付いていけるだらうかといふ疑問が沸いてくる。

 初演は昭和32年といふから、1957年。今から60年以上も前。その時代の人には、これが観られたといふことである。

 福田は、悲劇を書きたかつたと回想してゐる。そして、悲劇を書くには現代劇ではむづかしく、それを歴史劇に求めた。光秀を題材にした理由は分からないが、悲劇を書くには、個人の意思を超えた運命の力を書くことが必要である。そのためには、妖婆の存在が必要なのである。言はば運命の底知れぬ力の大きさを指し示す存在として。抗ひつつも抗ひ切れない、否定しつつもそれに取り込まれてしまふ。光秀の孤独は、意志の力によるよりは一層強く感じられる。さらに、福田はその妖婆と光秀の妻皐月とを同じ人物に演じさせ、それらを一体のものとして描いてゐる。初演では、杉村春子が演じてゐたやうだが、まさに歌舞伎一門と文学座との大芝居である。

 いま、これを上演することは無理であらうが、いつの日かその実現もあるやうな気がしてゐる。人物を減らして、言葉を添へて、説明的になりすぎぬやうに、それでゐて明快に。福田恆存としつかりと対話のできる演出家と役者とが出てくることを願つてゐる。

 

 

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