タイトルからすると、医療界に対する指弾のやうにも思へる。確かに、代表筆者の岩田健太郎氏は現役の医師である。神戸大学大学院医学研究科で感染学を専門とする医学研究者でもある。コロナ禍の中、ダイヤモンド・プリンセス号に乗り込んだ医師と言つた方が分かりやすいかもしれない。
しかし、氏が対談相手に選んだ鷲田清一、内田樹両氏は共に思弁家だから、医療に限つての話題ではない。ひろく人間学、世間学、日本社会論と広範にわたつてゐる。それがたいへんに面白かつた。休日一日この読書に当てたが、とても興奮した一日だつた。
話が多岐にわたるので、まとめることはしない。箴言の連続といふことで、私が付箋を貼つた数は、ちやうど30。きらきらと思考を刺戟してくれた。かういふ読書は久しぶりだ。深い思考が出てくるわけではないが、「なるほどね」といふ気持ち良い感覚が幸福感を抱かせてくれた。
一つだけ例をあげる。岩田氏は、以前から時間の前後と空間の前後が「逆」ではないかと感じてゐたと言ふ。つまり、日本語では過去を前と言ひ、未来を後と言ふ。12時より過去が午前で、未来が午後である。当たり前の話だが、これが空間的な表現になると、前は目の前のことを指し、後ろは視線とは逆の方向を指す。逆になつてゐる。これを空間に合はせるなら(私たちが時間をとらへるモデルは時計で、それは時間を空間化したものだから)、見てゐる未来を午前と言ひ、見えなくなつた過去を午後と言つた方が良いのではないか、といふのである。
すると、すかさず鷲田氏は、かう言ふ。
「それは、ベンヤミンのイメージを使えば一発で説明できますよ。天使は過去のほうを向きながら風によって未来へと飛ばされていく、進歩とはそういうものだと言った。」
つまり、時間は後ろを向きながら前に進んでゐるので、過去の方は見えてゐて未来は見えてゐないから、前と後ろが逆になるといふことだ。見えないところを後ろと言ひ、見えるところを前と言ふ。だから、時間的にも空間的にも見えてゐたところが前(午前、目の前)で、見えないところが後ろ(午後、背後)といふことになる。日本人の前と後ろの概念がバラバラではなかつたのである。
ベンヤミンといふ補助線がすぐに出てくるのは鷲田氏さすがであるが(当然かもしれない、氏には失礼かな)、かうして日本人のものの理解の仕方がくつきりと浮かび上がつたことに驚いた。この種の驚きに満ちてゐる。
2014年の出版だが、今頃にして読んで痛快であつた。
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