言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

鈴木孝夫氏の逝去を悼む

2021年02月12日 11時53分19秒 | 評論・評伝

 今朝の読売新聞で、言語学者の鈴木孝夫氏のご逝去を知つた。

 94歳といふから大往生であるが、喪失感はそれとは関係がない。英語教育について、全国民に4技能(読む書く話す聞く)を課すことの無意味を強く主張され、大事にすべきは日本語であることを熱弁される英語学者は貴重である。

 どうして、これほど英語教育に文部科学省は熱心であるのか。当の大臣は果たして英語が堪能であるのか私は寡聞にして知らないが、自分ができないことを全国民に課すといふことには、もう少し慎重であつて良い。もちろん、英語を勉強したいと言ふ人にやるなと言ふのもをかしいが、やりたいくないといふ人にやれといふのには、しつかりとした見識を開陳すべきであらう。これまた私は寡聞にしてさうした丁寧な説明を聞いたことがない。言はれるのは、これからはグローバル社会だから、といふ極めて貧しい社会観でしかない。世界のグローバルスタンダードがナショナリズムの再認識に至つてゐるのに、日本だけが周回遅れの英語化を目指す、しかも全国民に英語4技能を課すといふのは冗談話である。英語ができる人を徹底的に育てる、それは必要だらう。しかし、一生英語を使はないといふ人がゐることも事実である。そんな人に「4技能」を課すのは愚の骨頂。私もリスニングテストの監督をすることがあるが、気の毒だなと思ふ。

 「読む」「書く」を標準にして何の問題があるだらうか。しかも、文科省が目指す4技能といふものの正体もいびつである。今年の共通テストのリスニングテストの監督をした折に聞いたその内容はじつに幼稚園生の会話であつた。今年から「一回読み」もあつたが、そのレベルは「君が好きな果物はどれか」である。さういふ会話なら、「音声」ではなく実際の場面であれば、正確に聞き取れなくてもそこにゐれば分かる。それを音声に限つて「リスニング」テストにするといふのは、テストのためのテストといふことにならう。

 そもそも私などは耳が弱いから、日本語でも聞き取りが苦手だ。さういふ要素も「リスニング」にはある。しかし、「苦手」程度では免除にはなるまい。

 英語教育は何のためにするのか。それが崩れてゐるやうに思ふ。

 私たちの近代は、外国語を日本語に翻訳し、日本語で近代学問を論じることで成し遂げた。それを英語のできる国民にするといふことは、英語圏の下に自らの国を置くといふことを意味する。なぜなら、言葉を理解するには、その言葉を生み出した文化を知らなければならないからだ。その文化を知らない私たちが英語を駆使しても、それはいつまでも二流である。いやいや文化までも英語圏の下に置くのですよ、といふのであれば、筋は通つてゐるが、それは論外である。私たちの日本語文化を太らせるために英語教育があるのであつて、英語のために日本人教育があるのではない。

 鈴木孝夫は、かういふ表層的で極めて浅薄な言語観と戦つて来た。私は読売新聞で、氏が井筒俊彦に学んでゐたといふことを初めて知つた。「それはすげえや。さういふことか」と合点した。やはり哲学がある人が言語をやらないととんでもないことになる。

 残念でならない。

 ご冥福をお祈り申し上げる。

 

 

 

 

以上の新潮文庫は復刊を望む。

 

 

 

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