![]() | マルクス主義とキリスト教 (1956年) (角川文庫) |
矢内原 忠雄 | |
角川書店 |
矢内原忠雄を引き続き読んでゐる。
『マルクス主義とキリスト教』は全集第16巻の巻頭に収まる大論文である。
キリスト者にたいして、マルクス主義はどういふものかを社会科学者たる矢内原が渾身の筆致で書いたものだ。
今日では、マルクス主義など見向きもされない思想であり、もう「終はつた」思想であると思はれてゐる。しかし、どつこいさうはいかぬ。唯物的な発想は健在どころか、ほぼ日本人の思考はそれに染め上げられてゐる。合理的精神といふものがそれであるが、その一方に神秘的なものを認めない合理主義は、唯物思想であるといふことに気が付いてゐない。
「いや私は元旦には神社に行つてゐる」「いや私はお墓参りに行つてゐる」といふ人は多いだらう。しかし、それは習慣であつて、精神の領域で考へてはゐまい。神社やお墓には何かあるのか、それは合理的精神に反する行為であるが、私は合理では判別できないものがあるからそれを大事にしてゐると言へば、それは習慣を脱した精神である。しかし、さうでなければ習慣の域を出てゐない。
合理主義とは科学主義とも言へるが、それは18世紀以降のもので、もしかしたら流行思想であるかもしれない。さう構へて人間や自然の理解を深めていかうといふのが、神秘を認める精神である。
『マルクス主義とキリスト教』は、その意味でとても魅力的な指南書となつてゐる。
「かつて内村先生の言はれしごとく、霊と真実とをもつて神を排する『キリスト教は宗教に非ず』である。」
「例へば宗教は人間が人間たることによりて共通に与へられたる第一原理にして、あたかも富豪も貧民もその肉体的生存に空気を要することに差異なきがごとく、その霊的生命のためには神を必要とすることにおいて区別ないのである。宗教は宗教本来の領域において、即ち魂の問題においては明白に人類的超階級的である。」
付けたりとして、三木清の書評への反論が載せられてゐる。これがよい。3頁ほどであるが、本論文の趣旨を矢内原本人が要約してゐるかのやうである。全集ならではのものであり、全集の編集スタイルとしても巧みである。