言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

理性と知識とを信仰する近代人

2018年02月14日 14時07分39秒 | 日記
 矢内原忠雄を読んでゐる。

 今日は、「人口問題と聖書」である。経済学者である矢内原は、当然ながら産業化によつて人口が増えていく近代社会の人口問題を考へていく。マルサスの『人口論』、ゴッドウィンの『政治的正義』、ブハーリンの『歴史的唯物論』を俎上に載せて論究してゐる。私にはあまり理解ができない事柄も多く、ただ頁を繰るだけといふところもあつたが、批判の中心は「自ら人間の理性と知識とを信仰する」だけの彼らが、どうして完全にこの世界を正確に理解できるのかといふ疑問である。そして、理性と知識だけを頼りに、どうして人類社会の完成可能を説くのかに疑問を呈するのである。
 ペテロ第二の手紙にある「自分が知りもしないことを議(はか)る」を引用しながら、さうした彼らを楽天家と記し、そのお気楽さを論ふのである。

 科学者は、神を否定する。しかし、神は科学を否定しない。このことが意味することは明らかであらう。科学の立場は、理性と知識を信仰してゐる立場であり、それはかつては真理に至る道であつたかもしれないが、今はもう「かつてのやり方」でしかないといふことを知るべきだ。

 この辺りは、下記の書が詳しい。

科学哲学への招待 (ちくま学芸文庫)
野家 啓一
筑摩書房
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