昨日の産經新聞の「正論」欄に、入江隆則氏が、「文明論における日本學派の成立」と題する論文を書かれてゐた。
「日本學派」とは、20世紀の初頭に、スペインでオルテガ、コラール、ウナムーノ、マリーアスといつた人人の、スペインを論じつつ世界を論じてゐた「スペイン學派」に比するものであるといふ意味である。その論者として、入江氏が擧げるのが、川勝平太氏(『文化力―日本の底力』)、中西輝政氏(『國民の文明史』)、西尾幹二氏(『江戸のダイナミズム』)である。「これら3者は、いずれもその文明論的な視野とその論述において、一昔前のいわゆる『日本人論』とは、全く規模が違っている」と言ふ。
先日のこのブログで、福田恆存の言葉として「これからは日本人論では駄目だ、人間論でなければならない」を引いた。さて、これら「日本學派」が、果して「一昔前のいわゆる『日本人論』」なのか、それともスペイン學派に匹敵するやうなものなのかだらうか。氣になるところである。それを直ちに見極める力は、私にはない。が、玉石混淆の中から「日本學派」とは言へずとも、大學者が出現することを期待する。
朝日新聞の先日(2月19日)の夕刊に、大阪大學教授の森安孝夫氏が、興味深いことを書いてゐた。「中國や西洋生まれの歴史觀にしがみついていることこそ自虐史觀」。「偏狹な民族主義や愛國主義とは決別した歴史像が必要。それができるのは研究の蓄積がある日本しかない」。森氏の近著は『シルクロードと唐帝國』(「興亡の世界史」第5卷、講談社)である。「中央ユーラシア」といふ視點から見直した歴史像を提言する氏である。かういふ人物の出現もまた、「日本學派」形成の動きであらう。