言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

高野山までの百キロ歩行――少年たちの巡禮

2007年03月18日 10時46分06秒 | 日記・エッセイ・コラム

   私の勤めてゐる學校では、毎年この時期に希望者だけの百キロメートル歩行を實施してゐる。般若心經を毎朝生徒も職員も讀誦する學校で、佛教を中心とした宗教教育を創立以來續けてゐる。どういふ經緯かは解らないが、眞言宗との關係が深く、中學一年生と高校一年生の全員は、毎年春に宿泊修養行事を行つてゐる。したがつて、生徒等は在籍する間、何度も金剛峯寺には參詣することになる。

  そして、この百キロ歩行である。朝9時前に學校を出發して、翌日の午後3時に到着する。30時間の完全歩行である。もちろん、休憩時間に假眠をとる程度で、睡魔との鬪ひはすさまじい。足の痛みも寒さも今日の安樂とした環境で育つた者にはとにかく辛いものであり、自然の手ごはさを嫌といふほど感じさせられる。

  友人との會話やイヤフォン越しに聽く音樂で紛らはさうとする姿も、不謹愼といふよりも微笑ましい。二度と來るものか――と昨年公言してゐた輩がまた今年も來てゐるのを見ると、言葉にできない何かを彼等はつかんでゐるのだらうと思ふ。

  忍耐力、向上心、さうした言葉であるのだらうが、何とも言へない充實感は、達成した直後よりも、10年後20年後に、むしろじわりと滲み出てくるやうな性質のものではないか、そんなふうにも思ふ。

  14歳から17歳の少年達350名ほどが、自分の足だけを頼りに歩き續けるのである。高野山に向かひ、到着後全員で般若心經をあげる。さういふ形式はまさに巡禮であるけれども、それとともに、自分を超越したものに引つ張られて行くやうに感じながら歩くといふ行爲自體も、巡禮と言つて良いだらう。彼等には、宗教的な意義も價値も認めて高野山に行つてゐるのではない。自己への挑戰、あるいはさういふ行事があつたからといふ理由もあるかもしれない。しかしながら、結果的に彼等は、身體の限界を超越したところにある何かをつかむからである。100km08

   最後に、私のことを言へば、最後の40キロを伴歩するだけである。生徒等には「ずるい」と言はれるが、「元氣な者が見守らなければ、へとへとの君等を守れないやろ」とうそぶいて勘辨してもらふ。

  金剛峯寺の周邊には殘雪があつた。萬歩計は4萬を越えてゐたが、生徒等のはとつくに10萬は越えてゐるはずである。今朝はどんな目覺めをしただらうか。

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