言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

福田先生が亡くなつて十年

2004年11月23日 11時17分21秒 | 日記・エッセイ・コラム
 福田恆存先生が亡くなられて十年が經つた。東京での二つの記念會に私は參加しなかつた。どうしても仕事で行けなかつたといふこともあるが、やはり今囘は足が向かなかつた。同じ日に二つの會を催すといふことがどうにもやりきれない思ひがあつたからだ。命日に開催するといふのは分かる。だから、會が重なるといふのも道理だらう。だが、足が向かないといふのも道理である。
 それでといふ譯ではないが、翌二十一日に、奈良櫻井にある先生の歌碑を訪ねた。多くの讀者が御存じだと思ふが、先生の筆になる懷風藻の詩(大津皇子の辭世)と、萬葉集の歌(大津皇子の姉大伯皇女)である。
 御覽になりたい方は、『日本への遺言――福田恆存語録』(文集文庫)の262頁を參照なさつてください。

 寒風の吹く夕方、迷路のやうな道を車で行つた。二年前の正月に初めて訪れたときは、いろいろと探し囘りながら訪ねたが、今囘は順調であつた。拓本をとるために行つたので、2時間程その場にゐた。とにかく寒かつた。
 正直に言へば、先生の歌碑にはそぐはない、貧弱な神社である。あたりには他にも春日神社があるが、たぶん一番みすぼらしいもののやうにも思ふ。近所の人人にも知られてゐないだらう。ここにこんな歌碑があるとは。

 ここに行く前に、中臣鎌足と中大兄皇子とが大化改新の密談をしたといふ謂はれのある、談山神社を訪ねた。1300年前に思ひを寄せて飛鳥の都のことを考へた。先生には「有間皇子」といふ戲曲がある。恥かしい話だが、私はまだ讀んでゐない。關西にゐる内に、讀んでおかうと思ふ。

 拓本をとつた後、すぐ近くにある聖林寺の國寶十一面觀音像を拜觀しに行つた。閉館ぎりぎりの時間で、人はわづかに一組で私と入れ違ひに出て行かれた。靜かに對坐すると、不思議に涙が出る思ひがしてきた。
 御顏の傷が痛痛しく感じられたが、これが歴史を見つめてきた觀音樣の姿にはふさはしいとも思はれたのである。突然、「日本は母親の國なのだ」との思ひが沸いて來た。

 福田恆存先生は、この十年間をどう御覽になつてゐるだらうか。

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