言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語6

2004年11月14日 22時46分48秒 | 国語問題
 もちろん、哲學や戰略などといふものは國語を考へる上で必要ない。そもそも國語に哲學や戰略などと言ふ言葉がふさはしくないのである。外國人が日本語は難しいと言つてゐるから(眞面目に勉強をしてゐる人で、さう言つてゐる人を私は見たことがない。單なる怠けものの言ひぐさではないかしらん)やさしくしよう、などといふものが戰略だと思つてゐるのだとしたら、それは日本が不景氣だから、商品券をばら撒かうと言つてゐるのと同じ程度の「戰略」である。それは「何もしてゐない」といふことでしかない。戰略といふ言葉を使ひたいのなら、日本語を變へるのではなく、日本語の文學を教授者が學ぶことであり、日本の文化を知ることである。そして、日本を好きにさせることである。その上で、戰術として教へる技術を磨くことが必要なのである。日本語を變へようなどといふことは、愚の骨頂であつて、文化を破壞することである。
 「こころ」は漢字の「心」と書くのが正式である、したがつて、漱石の作品「こころ」は「心」にすべきだ、といふのはまつたくナンセンスであることは、誰にも分からう。私たちの國語は、そもそもさういふ性質の言語なのである。ひらがな、カタカナ、漢字、それらによつて生み出される多樣性が、私たちの國語の眞骨頂である。上代以來、漢文訓讀を主體とした文體と、假名を主體とした文脈とでは、文字どころか、助動詞まで違つて用ゐられてきた。表記がそのまま表現技法として用ゐられる、私たちの國語の在り方はむしろ賞讚すべきものである。そして、これが文化であり、その言葉によつて私たちが成立つてゐるのである。
 西洋のやうな、アルファベットだけで成立つ言語を「先進的」と考へるから、この種の在り方に疑問を持つのである。外國人の言語學習の便を圖つて國語をいぢるといふのは、それこそ「自殺行爲」ではあるまいか。過去の文學や先人の生き方との關係を、またひとつ斷絶させてしまふことになる。
 「海外で日本語学習をしているひとも数百万。オーストラリアでは、日本語はすでに小学校の教科書にもはいり、学習者人口は四〇万」。かうした外國人の日本語學習の熱を冷まさないやうに、日本語をいぢらうといふのが、加藤氏の本意であらう。が、それは本末顛倒である。「むずかしい日本語」であるがゆゑに、日本語が普及しないのなら、それはそれまでである(もつとも、これまで普及したのは「むずかしい日本語」であつたといふ事實は、どう説明するのかといふ疑問はあるが)。日本語の難しさを越えても日本語を學習したいと思はせることができなかつたのであるなら、致し方ない。それをもつて「日本語の敗北」とするのは、何度も言ふがお門違ひである。魅力を持たせられない、現代の私たちにその科を向けるべきである。
 (加藤氏の論文を掲載した「中央公論」の名誉のために書き添へておくが、その次の頁からは學藝大學の松岡榮志氏の「アルファベットを凌駕し始めた漢字」といふ見識のある文章が掲載されてゐる)。


コメント (1)
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