言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

小谷野敦さんの新著について

2004年11月25日 21時35分20秒 | 本と雑誌
 小谷野敦さんの新著『評論家入門』を讀んでゐる。まだ第一章しか讀んでゐないが、いつもながら文章に勢ひがあつて面白い。いづれまとまつた感想を書かくこともあるかと思ふが、今日のところは、第一章の印象を書く。
 學問との違ひを書いてをられるが、評論が學問でない以上、「學問」へのルサンチマンを書いても仕方ないのではないかと思つた。小林秀雄は、學問研究といふスタイルを嫌つたから評論を書いたのだし、讀者は學問をしたいがために小林を讀んではゐない。
 ここからは私の意見だが、文學においての研究と言ふスタイルはたかだか百年にも滿たないものである。したがつてそれを基準にして文藝評論を考へても仕方ないだらう。小林秀雄の文章は今後百年讀まれても、吉田精一の文章は讀まれないだらう。そして同じく文藝評論を書いてゐても、江藤淳や柄谷行人は讀まれないだらう。

 大事なことは、生き方に感化を與へるかどうかである。
 私は、小谷野さんの書き物にさういふ感化を受けるから好きである。それが眞理であるかどうかとは關係がない。「肝に銘じる」が「肝に命じる」(16頁)と書いてあつても良いのである。それは御愛敬である。

 面白い文章を讀みたいのである。

コメント
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