また、支那と日本との文字についても、津田左右吉は、次のやうに明確にその差異を述べてゐる。
「全體として日本語から成立つ日本文であれば、支那の文字のもつ役割はさほど重いものではない。日本語化した支那語の如きは、カナで書いてもロオマ字で書いても差支へは無い。だから、支那の文字が日本で或る程度に用ゐられてゐるといふことから、二國は同文であるといふのは、大なる誤である。」
『支那思想と日本』一七二頁
文中の「同文」とは、「同じ文字を用ゐるといふこと」と津田は書いてゐる。つまり、日本語の中の漢字は、支那語ではなく、すでに日本語なのであり、漢字があるから日本語は支那の影響下にあるなどと考へる必要はないと言つてゐるのである。
さらに、別の處では、かうも記してゐる。
「東洋といふ呼稱のあてはめられる地域をどれだけのものとするにせよ、文化的意義に於いてはそれが一つの世界として昔から成立つてゐたことが無く、東洋史といふ一つの歴史も存在せず、從つて東洋文化といふ一つの文化があるといふことは、本來、考へられないことである、といふのである。」
同右 一七八頁
近代化は西洋化である。私たちは背廣を著、スカートを著、靴下をはき、靴をはいてゐる。しかし、私たちは西洋人ではない。英語を學び、大學の入學試驗で國語の科目がなくとも英語の試驗はあるやうな國であるが、私たちは一向に英語が巧くならない。紛れもなく日本語の國である。つまり、日本は西洋ではない。また、日本は支那ではない。かと言つて、東洋などといふ大雑把な理解の範疇に留めても、新しく見えてくるものはないのだ。
その意味で、津田の「支那の文字のもつ役割はさほど重いものではない」といふのは、本當だらう。日本語の文法を見ても、あの國の文法とは全く違ふ。
石川九楊氏は『二重言語論』で「文字は発声・音韻や文法の構造にまで入り込むのであって、その考察を欠いた言語論は滑稽とさえ言える」(三一頁)と思ひきつた發言をしてゐるが、むしろ、その言の方が「滑稽」ではないだらうか。それは助詞のない支那語の側から、日本語を見た場合の幻想であり、虚像である。現実よりも大きく見えてしまふのがその特徴である。
そして、同じ頁の中で、「言語にとって重要なのは語彙の質と量と、その語彙を引き出す力であると同時にその語彙を成立せしめる力である文体、つまり語彙と文体であり、文法は二義的なのである」と言ふのは、矛楯ではないだらうか。文體とは文法があつてはじめて成立するものであつて、文體が文法に優先するとなれば、それはもはや言語でなくなつてしまふ。
私は、個性と日本人らしさについて考へるとき、この文體と文法との關係を使ふが、私たちの道徳觀や生活習慣を否定して、自分勝手な振舞ひを「個性」とは言ふまい。醫者は醫者らしくあつた上に個性がある、それならば良い。しかし、目茶苦茶な醫療をして患者を殺してしまふやうではそれを醫者の個性とは言はないのと同じことである。福田恆存は、かうした「個性」を「野性」と言つた。言葉においても同樣である。文法があつて文體がある。