四日ほどかけて読んだ。夏休みには長い本を読むといふことが義務でもなく、かと言つて快楽でもないがここしばらくの習慣になつてゐる。今年は『国宝』をと決めてゐた。本は選ぶまでが勝負で、昨年は私には珍しくアメリカの小説でドン・デリーロの『アンダー・ワールド』だが、これはついに読み切れなかつた。
今年は、吉田修一に長編だ。読み終はるのが惜しくなるほど引き付けられた。『悪人』『怒り』とは違ふ、吉田の別の世界を堪能した。
極道の家に生まれながら、梨園に引き取られて、芸道の道を貫く。歌舞伎の世界はまつたく分からないけれども、吉田の描く舞台の景色は、そんな私にも絵が浮かんだ。「一つの道を極める」とは言葉にすれば簡単に言へてしまふことではあるが、それを生きることは難しい。では、それを描くことは簡単かと言へばさうではない。作者がそれを描いたとして、それを読む者が、それを「極めた」と思ふか思はないかなはその描き方次第である。言葉とは素直なところがあつて、筆者が思つてゐる以上のものを描くことはできない。それどころか書き手がうまく書けたと思ふところには瑕疵があつて、読む側はそれをなぜか知らぬが嗅ぎ分けてしまふ。
この小説の主人公喜久雄や俊介の生き方に、私自身はその「極み」を見たので、じつに幸せな時間であつた。
小説は、それを物語る語り手によつて綴られる。初めはその趣向に戸惑つたが、喜久雄や俊介、その他の人々がそれぞれ自分勝手にそれでゐて自らその関係のなかに身を置かうとしてゐる、じつに「自由」な生き方を描くにはこれが相応しいと思へてきた。下手をすれば登場人物たちはご都合主義的に話の展開に引きずられてしまひさうだが、さうはなつてゐない。かへつて生き生きとしてゐるのである。そして、その語り手が挿し込む人物表現がまたじつにいいのである。
「喜久雄はまじまじと権五郎の顔を見つめました。自分の父親が死ぬことが全く悲しくありませんでした。ただ、自分の父親が何かに負けて人生を終えることが悔しくて、涙があふれてまいります。」
「いつの時代も嫌なやつなどおりません。いるのは、
『私は気にしませんけどね、でも、問題される保護者の方もいらっしゃるんじゃないかしら?』
という嫌なやつならぬ嫌なやつでございます。」
「喜久雄が雪姫をやれば、雪姫の一人芝居のようになってしまうのは他の演目をやったところで同じこと、まるで錦鯉を小さな水槽で飼っているようなもので、自分たちが喜久雄をその錦鯉に育て上げ、喜久雄自身もそれを望んだ結果とはいえ、この錦鯉が美しければ美しいほど、窮屈そうなそのそ姿を見るに忍びないのでございます。」
台詞もいいが、それは省略する。
映画化されるのであれば、だれが喜久雄を演じるのか。女形ではあるけれども決して玉三郎ではない。
(追加)
ついに文庫になつた。