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言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

吉田修一『国宝』を読む

2021年08月09日 13時25分59秒 | 本と雑誌

 

 

 

 四日ほどかけて読んだ。夏休みには長い本を読むといふことが義務でもなく、かと言つて快楽でもないがここしばらくの習慣になつてゐる。今年は『国宝』をと決めてゐた。本は選ぶまでが勝負で、昨年は私には珍しくアメリカの小説でドン・デリーロの『アンダー・ワールド』だが、これはついに読み切れなかつた。

 今年は、吉田修一に長編だ。読み終はるのが惜しくなるほど引き付けられた。『悪人』『怒り』とは違ふ、吉田の別の世界を堪能した。

 極道の家に生まれながら、梨園に引き取られて、芸道の道を貫く。歌舞伎の世界はまつたく分からないけれども、吉田の描く舞台の景色は、そんな私にも絵が浮かんだ。「一つの道を極める」とは言葉にすれば簡単に言へてしまふことではあるが、それを生きることは難しい。では、それを描くことは簡単かと言へばさうではない。作者がそれを描いたとして、それを読む者が、それを「極めた」と思ふか思はないかなはその描き方次第である。言葉とは素直なところがあつて、筆者が思つてゐる以上のものを描くことはできない。それどころか書き手がうまく書けたと思ふところには瑕疵があつて、読む側はそれをなぜか知らぬが嗅ぎ分けてしまふ。

 この小説の主人公喜久雄や俊介の生き方に、私自身はその「極み」を見たので、じつに幸せな時間であつた。

 小説は、それを物語る語り手によつて綴られる。初めはその趣向に戸惑つたが、喜久雄や俊介、その他の人々がそれぞれ自分勝手にそれでゐて自らその関係のなかに身を置かうとしてゐる、じつに「自由」な生き方を描くにはこれが相応しいと思へてきた。下手をすれば登場人物たちはご都合主義的に話の展開に引きずられてしまひさうだが、さうはなつてゐない。かへつて生き生きとしてゐるのである。そして、その語り手が挿し込む人物表現がまたじつにいいのである。

「喜久雄はまじまじと権五郎の顔を見つめました。自分の父親が死ぬことが全く悲しくありませんでした。ただ、自分の父親が何かに負けて人生を終えることが悔しくて、涙があふれてまいります。」

「いつの時代も嫌なやつなどおりません。いるのは、

『私は気にしませんけどね、でも、問題される保護者の方もいらっしゃるんじゃないかしら?』

 という嫌なやつならぬ嫌なやつでございます。」

「喜久雄が雪姫をやれば、雪姫の一人芝居のようになってしまうのは他の演目をやったところで同じこと、まるで錦鯉を小さな水槽で飼っているようなもので、自分たちが喜久雄をその錦鯉に育て上げ、喜久雄自身もそれを望んだ結果とはいえ、この錦鯉が美しければ美しいほど、窮屈そうなそのそ姿を見るに忍びないのでございます。」

 台詞もいいが、それは省略する。

 映画化されるのであれば、だれが喜久雄を演じるのか。女形ではあるけれども決して玉三郎ではない。

 

(追加)

ついに文庫になつた。

 

 

 

 

 

 

 

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小林秀雄・岡潔『人間の建設』

2021年08月02日 20時44分24秒 | 本と雑誌

 

 

 岡潔がなぜか知らないけれども再評価されてゐる。私は数学はからつきしなので、多変数だとか解析だとか函数論などいふのはまつたく分からないけれども(高校数学が得意だつたとして分かることではないとは思ふが)、岡潔の随筆を高校時代に読んでとても惹かれるものがあつた。最初に購入した全集はなんと『岡潔集』である。『福田恆存全集』も大事な本で同じく大学時代に購入したが、それは配本の度に購入して行つたので全巻が揃ふ前に『岡潔集』を手に入れてゐた。5,000円だつた。福田恆存全集は一冊5,500円だつたと思ふ。

 そんなことはともかく、岡潔の言ふことは今こそ読まれるべきである。しかし、それはいよいよそれが正しく評価される時代になつたからといふのではない。岡潔の主張と現代社会との間に絶望的な乖離があることを示してゐるからである。

 たぶん私の周囲の人間で、次の発言を真面目に受け取る人はゐない。

「いま日本がすべきことは、からだを動かさず、じっと坐りこんで、目を見開いて何もしないことだと思うのです。日本人がその役割をやらなければだれもやれない。これのできるのは、いざとなったら神風特攻隊のごとく死ぬる民族だけです。そのために日本の民族が用意されている。そう思っているのです」

 これを聴いてゐる小林も賛意を示してゐるかどうか定かではない。特攻隊のことに引き寄せて別の話題に移さうとしてゐるやうにも思へる。しかし、いまの私たちにはさういふ受け止め方もできまい。「何もしない」ことをし続け、小林のやうに心の目で見て「批評」するといふのでもなく、ただひたすら日常を行き、流され、いざといふ時が来ないことを願ひ、さうなれば逃げる。さういふ私たちに民族の役割意識などはない。言つてよければ、個人の生き方にさへ「役割」など求めてゐない。あるのは「自分の適性とは何か」「自分探し」「年収の多い職業は何か」ばかりである。

 小我を捨てることを求める岡の言動が変人としてしか見られなかつたのは、何もこの対談がなされた60年ほど前だけのことではなく、今も同じである。しかし、今はその変人が生きてゐないから気楽に読めるといふことにすぎない。

 私たちの国は絶望的に衰退してゐる、そんなことを読みながら感じた。

 小林や岡には愛情がある。そして信じるものを持つてゐる。近くにゐる人からは、二人は変人であつたらう。しかし、正統が異端視されるのがこの日本であるといふ逆説を理解するなら、それは当然のことである。恐れずに変人になれるか。刃物を腹に当てられるやうな書である。

 

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白洲正子『心に残る人々』を読む

2021年04月25日 09時39分15秒 | 本と雑誌

 

 

 時事評論石川の最新号を読んでゐて、渋沢栄一のことが気になつてゐた。それで渋沢栄一のことを食後の団欒の時間に家内に話すと、話が膨らんだ。ヤクザが作つた武士社会(徳川)に「こんな社会はおかしいぜ」とイチャモンをつけたのが渋沢で、ところが別のヤクザ(薩長)が政権を取つたからそれに文句をつけようとしたら、そのヤクザからスカウトされて、結果的には政府になんかゐられるかといふことで、経済界に身を投じたのが渋沢だといふところに話が落ち着いた。二人の間で疑問になつたのが「西郷さんつてどういふ役割だつたんだらうね」といふことだつた。

 九州出身の家内も、そこに六年ゐた私も西郷びいきである。同じく薩摩つぽの大久保は能吏ではあるし、近代の礎を築いた者としての壮絶な生き方には同情も寄せるが、人物は好きではない。それにたいして西郷の断念の深さは実利を無視したところに根差してゐるから敬愛する。彼は時代を超えてゐる。さういふ人物が外発的な、無理矢理の日本の近代には必要な重しであつた。大久保は近代化を成し遂げるためには十分に働いたが、西郷はそれを支へるのに必要な土台を築き上げたのである。では渋沢とはどういふ存在か。もちろん、大久保の側であらう。十分に働いたのである。

 さて、そんな会話は団欒の後の、夜の眠りによつてすつかり忘れてしまつてゐたが、今朝書棚の整理を始めようとふと手にした本書をめくつてゐたらたまたま渋沢栄一が出てきた。何とも不思議な感じである。ほんの15頁ほどのエッセイだから、朝飯前に読んでしまつた。続けて小林秀雄、正宗白鳥、岡本太郎と私自身の関心事に応じて読み始めたが、とても面白かつた。

 小林秀雄の無邪気、正宗白鳥の飄逸、岡本太郎の演じられた青二才の感じが、彼らの文章から感じたままであつた。白洲が白鳥を目の前にしての「会ふ必要がなかつた」との感慨と同じ印象である。

 渋沢とはもちろん、白洲氏は会つてはゐない。渋沢の残した文章から「心に残つた」ところを記したまでである。しかし、それも的確のやうに思へた。今更ながら、文章は鏡であると感じる。「心に残る人々」の姿が、どれも白洲正子のやうに感じたからである。それはもちろん悪口ではない。人が人と出会ふとは正しく自分との出会ひであると思ふからである。

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『ヴィゴーツキー心理学』を読む

2021年02月26日 14時35分41秒 | 本と雑誌

 

 

 一般にはヴィゴツキーと日本語では表記されるが、この著者中村和夫氏は「ヴィゴーツキー」と書く。ロシア語はまつたく分からない私にはどちらが原音に近いのかどうか分からないが、ヴィゴツキーが言ひやすい。学会名もこちらである。

 それはともかく、この本はブックレット形式で非常に薄い(全体で98頁)が、とても分かりやすい。ヴィゴツキーの全体像を明らかにすることはいい意味で断念されてをり、タイトルのように「心理学」のみに焦点を当ててゐる。中でも「内言」といふ独特の術語の説明を中心にしてゐる。

 これがとても分かりやすかつた。人間には言葉にして口から出る前に、心のうちに漠然としてゐて、「非文法的で、主語や説明後が省略された、ほとんど述語の連鎖で成り立っている」ものがあり、それが「内言」である。

 そして、その内言を再構成して、自覚的随意的に表現することができるようになって生まれるのが書き言葉であり、子供の成長には、この書き言葉の教育が大事であるといふのだ。

 話し言葉と書き言葉の関係は、ヴィゴツキーによれば「算数に対する代数と同じ関係」であると言ふ。

 少し引用する。

「注意にしろ記憶にしろ算数操作にしろ、子どもがその心理過程を自覚し、随意的に支配できるようになるためには、それが生活的概念――偶然的な結合による非体系的な言葉の意味のまとまり――に媒介されているだけは不十分なのである。これらの心理過程が科学的概念――体系化された言葉の意味――によって媒介されたものになることがふかけてつなのである。」

「生活的概念」が「科学的概念」になるには、書き言葉の教育が必要だといふことだ。つまりは自然発生的にはその移行は起きないのである。「結合」から「体系」へと言ひ換へてもよいだらう。

 これは非常に面白い考へ方だと思つた。

 例へば、かういふ話し言葉はまだ複合である。

「その人が自転車から落ちたのは、落ちて大変な怪我をしたからです。」

 科学的に体系的に言葉で表現しきれてゐない。内言のままである。

 因果を言ふなら、「その人は自転車から落ちたので、大変な怪我をした」であらうし、あるいは「その人が大変な怪我をしたのは、自転車から落ちたからです」となる。

 書き言葉の訓練とは、心理学的に言ふと心理の過程を体系化するといふことになるやうだ。

 そして、その延長上に「人格」といふものが示される。教育において書き言葉の教育が必要な所以である。

 

 

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西尾幹二を久しぶりに読む。

2021年01月24日 09時31分11秒 | 本と雑誌

 西部邁、山崎正和が亡くなり、保守派言論人の重鎮として健在なのは西尾幹二である。少し年齢が下なのは佐伯啓思だが、論争的な方ではないので文章は緻密なのかもしれないが、私はあまり魅力を感じない。論争的と言へば、江藤淳もだいぶん前に亡くなつた。その弟子のやうな存在である福田和也も今はあまり書いてゐない。更に思ひ出したが、そのお友達であつた坪内祐三も昨年だつたか亡くなつた。私の読書遍歴のなかで、多くを占めてゐた批評家たちが次々と鬼籍に入られていく。さびしい。そんな中、西尾の存在はやはり大きい。

 氏のウェブサイトの年始の挨拶には、アメリカ大統領選のことが書かれてゐた。選挙の疑惑は明確なのに、そのまま次期大統領が決まつてしまふことに危機を感じてゐるやうであつた。そこには、「米国は今や法治国家ではない」とまで書かれてゐる。

 ポストトゥルースの時代にあつて、何が真実かが分からない。かつて誰かが「嘘も三回(百回は大げさでは)言へば真実になる」と言つたと聞く(ゲッペルス、レーニン、ユダヤの格言など諸説あり)が、さうであれば、この状況は現代に限つたことではないかもしれないが、今や知識人も市井人も同じやうに「何が真実かが分からない」状況にある。信頼できる人、慧眼の士と言へる人が果たしてゐるのかどうか、それすらも分からなくなつてゐる。

 一方、それが民主主義といふものだとも思ふ。いよいよその馬脚を現したといふことであれば、それは慶賀すべきこととも思ふ。「民主主義の死」などと大仰に言ふ知識人もゐるが、そもそも民主主義に生も死もない。制度に生命観を持たせる発想自体が愚かである。プラトンを引くまでもなく、民主主義とは衆愚と隣り合はせなのである。

 したがつて、民主主義なんてこの程度のものだと世界中の民主主義幻想を醒ませてくれたのであるから、トランプにはその程度の褒章があつてもいいのではないか。

 何が真実か分からない中で、さてどうすべきか。それは簡単なことで、人間を選べといふことにつきる。言葉に力があつて(しかし、その人はサイコパスである危険性もある)、行動に誠実さがあつて(サイコパスにはこれがない)、愛がある(自己を否定する理想がある)人、その人を捜せばよい。その人の価値が分かるためにはこちらの目の質が問はれることになるから、それも怠つてはならない。ソクラテスになるといふことだ。

 さういふ訓練が日常的に行はれれば、真実を知ることはあまり難しくない。ただ相当に面倒くさいことではあるが。

 

 さて、西尾氏の話題であつた。

 2010年前後に、氏は日本の問題点を権威と権力に分類し、それを天皇と政治とに対応させて論じてゐた。そこでは思ひ切つて大東亜戦争の責任についても論じられ、近代の天皇には権力もあつたから当然ながら責任はあると明言してゐた(ここが他の保守思想家と異なる)。そして、その責任を昭和天皇は果たしたと見る。そして戦後の日本は、権威と権力とに分離するといふ伝統的なスタイルに戻つたので、政治が天皇を守らなければならない。しかし、今日その政治に権力を保持する能力がない。なぜか。日本はアメリカの属国になつてゐるからである。さうであれば、アメリカが日本の皇室を守らなければならないといふ見立てになる。事実、戦後の政治を見てゐれば、アメリカが皇室を守つてきたと言へると言ふ。ところが、近年ではそのアメリカの政治もふらついてゐる。さうであれば、皇室の保持は難しいのではないか。核兵器の保持も共産国が併存するこの東アジアでは必要なことだといふ論じるが、それも皇室の保持といふ視点から語られてゐる。こんな構図で西尾は今日の問題を見てゐる。

 こんなアクロバティックな思考法で現代日本をとらへる思想家は、さうさうゐるものではない。私にはそれを批評する力はないが、皇室への距離感が私とは異なるので、十分に理解できたとは言ひ難い。一度政治の舞台に上がつた近代天皇は、もう一度京都にお帰りになつて神事を全うしていただくといふことは難しいのかもしれないが、権威の象徴として天皇がいらつしやるといふのは違ふと思ふ。天皇は現憲法の埒外。京都が独立して神道国を作り、その信仰を持つ人が日本にたくさんゐるといふのはダメなのかと思ふ。絵空事に過ぎないが、日本の政治を立ち直らせるために皇室を持ち出すといふのは不敬のやうな気がする。

 ただ西尾氏の言葉には依然力がある。それは愛があるからだらう。

 

 

 

 

 

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