昨日は75回目の終戦記念日だつた。この終戦といふ言葉への不快感は毎年深くなつていくが、それは同時に戦争とは何かといふことを深めることにも向かはず、あの戦争を指揮し、社会を動かしてゐたそれぞれの階層の担当者たちの無能とそのことへのあまりの無自覚さへの苛立ちへと向かつてゐる。だから、戦争なんてもうできないだらうし、したら大変なことになるだらう、そんな憂ひが濃い。コロナ禍一つうまく処理できずに、マスコミや専門人は政権への不平や不満を言ふだけで仕事をしてゐると思つてゐる、こんな体たらくを見ると、なるほどあの戦争もかうやつて負けたのだらうと想像がつく。そして解決ではなく「終息」と言つてコロナ禍をやり過ごしていくのだらう。終戦記念日への不快感は、そのまま「コロナの終息」への不快感へとつながつていく。
昨日の敗戦記念日を大阪市の住之江公園に隣接する護国神社で迎へた。友人のお誘ひを受けて初めて訪れた。感染拡大の防止のために本殿には上がれず、正面に張られたテントの中で式典に臨んだ。音声は本殿内から漏れてくるスピーカーの音が頼りで、あまりよく聞き取ることはできなかつた。風は少しあつてテントは揺れたが、テント内は3密(これはもう5年もすれば分からない言葉になるだらうから註をつけておく。密接・密集・密閉のこと)で、あまり感じない。一時間ほど経つて午後一時頃の空は雲一つない晴天であつた。炎天下の気温は体温を軽く超えてゐただらう。75年前のその日はかうであつたかとは感じなかつたが、お祓ひを受け、神楽の奉納を見ながら安かれと祈る時間こそは私たちの伝統であらねばならないといふ思ひがした。
オルテガの『大衆の反逆』の感想を書くのになぜこの話題から書くのか不思議に思はれるかもしれない。しかし、なぜか行く前に読み終はりさうだつたこの本の最終章はこの日を過ぎてからにしようと思つたからである。そして、今朝予定通り読み終へた。私にはこれまたうまくまとめる自身など毛頭ない。古典には素直に項垂れればいいのであるから、要約など必要ないのは当然で、いくつか引いておくことにする。
オルテガには、ヨーロッパといふ価値観が厳然としてあり、大衆の反逆を受け止める器としてヨーロッパの歴史への確信がある。本書が書かれたのは1930年であるが、その確信はみごとにヨーロッパ連合として結実してゐる(ついでに言へば、更なる大衆の反逆としてイグジットの問題も出てゐる。この行きつ戻りこそ、大衆の反逆と貴族の応戦の象徴なのだらう)。
そして、オルテガには精神の貴族としての少数の人々への確信もある。
「わたしにとって、貴族とは、つねに自己を超克し、おのれの義務とおのれに対する要求として強く自覚しているものに向って規制の自己を超えてゆく態度を持っている勇敢な生の同義語である。かくして、高貴なる生は、凡俗で生気のない生、つまり静止したままで自己の中に閉じこもり、外部の力によって自己の外に出ることを強制されないかぎり永遠の逼塞を申し渡されいる生、と対置されるのである。こうした人間の凡俗なあり方をわたしが大衆と呼ぶ理由はここにあるのである。それは、そうしたあり方の人間が多数であるからという理由からよりも、無気力な人間であるという理由からである。」
オルテガは、生の哲学者であるディルタイの影響を受けてゐるといふことを訳者の解説によつて初めて知つた。上の文章にもいくつか「生」といふ言葉が出てくるが、生とは生活、生命、人生といふ意味を含むが、いづれも「動的なもの」であつて、「静止したままで自己の中に閉じこも」つた生は生ではない。彼は「ドン・キホーテに関する思索」の中で「我は我と我が環境なり」と記してゐるさうだが、それは「実現せねばならない自己の姿」を実現するための自我とそれを取り巻く周囲との関係であり、極めて動的な存在である。そしてその運動を自らに課すものこそが精神の貴族であるとの理解である。
オルテガを読むと、どうしても西部邁が思ひ出される。彼の大衆批判、マスコミ批判にはいつもオルテガがゐた。そして、多くのオルテガ読者は正確にオルテガを読んでゐないとの憤りを表明してゐた。もう一度読み直せば、どこに西部流のオルテガ理解があるのかは明瞭になるが、今はそれはできない。オルテガにあつて、西部邁にないものも今回はつきりした。それは私が第一に挙げた、ヨーロッパの価値観への確信である。そこにはプラトンの哲学もキリスト教の信仰も含まれてゐる。オルテガが言ふ貴族は、ただ単なる運動する生ではなく、さうした価値を信じた人のことである。西部は運動した。激しく運動したが、価値への接近を志しつつもあえて漸近線に留まつてゐた。それが大事であるとさへ表明してゐたが、それではやはり貴族ではない。せいぜい貴族にならうとした人どまりである。西部論を書く時の大事な註である。
「一つの思想を持つということは、その思想の根拠を所有していると信じることであり、したがって、一つの道理の存在、理解しうる真理の世界の存在を信ずることである。したがって思想を形成し、意見を持つということは、そうした審判に訴え、忠誠を誓い、その法廷の法典と判決を受け入れるということとまったく同じことであり、したがって、最良の共存形式は対話であり、対話を通してわれわれの思想の正当性を吟味することであると信じることに他ならないのである。」
しかし、大衆にはそれはできない。なぜなら、「自分の望むところをそのまま強行する」以外に生のあり方を知らないからである。それをオルテガは「魂の自己閉塞性」と厳しく名付ける。そしてその果てにある極端な「直接行動」である。
どのページを開いても、私たちの社会そのものの批判である。「いっさいの過去に不関知なるがゆえに、古典的規範的な時代を認めないのではなく、自分自身をすべての過ぎ去った生にまさるとともにそれらには還元しえない一つの新しい生であるとみなしている」などは、幼児性批判であり、まさに坊つちやん気質への批判である。
訳者は解説者の中で次のやうに記してゐる。
「現代の大衆人は保護過剰の『お坊ちゃん』と化し、自分を取り巻く高度で豊かな生の環境=文明=を、あたかもそれが空気のような自然物であるかのように錯覚し、文明を生み出しそれを維持している稀有の才能に対する感謝の念を忘れるとともに、自分があたかも自足自律的な人間と化してしまったのである。いうなれば、現代の大衆人は文明世界の中に突如おどり出た未開人であり、野蛮人なのである。これが『大衆の反逆』の本質であり、こうした大衆人が社会的権力の座を占めたところに現代の危機の真相があるのである。」
神前で祈るといふ儀式の中にこそ大事なものがあるやうに思へた。
ちくま学芸文庫のほかに、次の二冊がある。私が読んだのは、現在のちくま学芸文庫版の元訳である角川文庫版である。絶版になつてゐたので、ちくま学芸文庫に入つたやうだ。