goo blog サービス終了のお知らせ 

言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『日本の教育はダメじゃない』を読む

2021年08月18日 17時49分48秒 | 本と雑誌

 

 

 評論家の由紀草一先生が紹介してゐたので、読んでみた。今、どこで紹介していらしたのかフェイスブックやら、このブログやらを探してみたが、見つからない。ただ「これからの教育問題は、この本を読んでからにしてもらひたい」といふやうなことを書かれてゐたやうに思ふ。

 この本も夏休みに読む本として大阪に持つて来た。昨日の午後から読み始めて、先ほど読み終はつた。朝から読めば一日で読み終はる。内容は簡単ではない。目が覚めるやうな新しい観点があつて、そのたびに立ち止まつて熟考したくなる誘惑に負けなければ一気に読み通せる。それは著者二人の7、8年に及ぶ議論が十二分に説得力を持つたものへと発展したからであらうし、後書によれば編集者の力や草稿を読まれた苅谷剛彦氏からのアドバイスや、草稿を読んだ京大の教育学部生からの感想を含んでゐるからだと言ふ。だから、非常に読みやすい。そして、意見が独りよがりにならぬやう、誤解が生じぬやうに、主張のあとには必ず注意書きが添へられてゐる。私などは「そんな誤解する人はゐないでせう」と突つ込みを入れたくなるほどの丁寧な議論の進め方であるが、教育については誰もが一家言を持つてゐるから、かういふ配慮は必要なのだらう。それもたいへんに勉強になつた。

 結論は、タイトル通りである。もちろん、(著者たちのやうな注意書きを書くと)日本の教育は素晴らしい、日本国家万歳を言つてゐるのではない。文科省も、教育学者も、「新しい教育像」を構築するときに、現状を否定するところから始めるが、その否定の根拠はどこにありますか? といふことを終始言ひ続けるのが本書である。「うまく行つてゐない」と言ふのであれば、それはどこの国と比較してですか? そして、それはいつの調査に拠るものですか? 国際教育学会では、日本の「授業研究」こそ日本の学力向上の要因ではないかといふ認識であり、アメリカの教育学者であるスティングレーが『学びの差異』『教への差異』で、日本の学校教育の素晴らしさを発表してゐますよ、と語りかけるのである。今般制度をやめることになつた教員免許更新制度についても、「授業研究」をやり続けてゐてどういふ課題があるので、それを補ふためには大学で教員が学び直す必要があるといふ論立てではなく、「授業研究」には一切触れずに、休みを減らす方向で新たな業務として提起することに疑義を申し立ててゐる。

 安倍内閣の教育再生実行会議の答申案だらうか、かういふ文言があると言ふ。

「教育委員会と大学などの関係者が教員の育成ビジョンを共有しつつ、各種の研修や免許状更新講習、免許法認定講習、大学等が提供する履修証明プログラムや各種コース等を積み上げ、受講証明や専修免許状取得が可能となるような体制が構築される必要がある」

 ここには、当事者である教員たちからの依頼も願望も聴取した形跡は見られない。要は「現代の変化著しい状況下で、二十歳そこそこの若者が学んだ知識でやつて行つてもらつては困る」といふ経済界の後押しで見識もないままに安倍内閣が進めてしまつたといふことなのだらう。

 それも「日本の教育はダメだから」といふ情緒的な判断を根拠としてといふことである。

 また同じやうな根拠で進められたアクティブ・ラーニングも本家アメリカでは廃れてゐると言ふ。今は「反転学習」だと言ふが、それもまた一過性かもしれない。「いじめ・不登校が日本は多い」「高い学力を維持できてゐるのは塾通ひのおかげ」「ゆとり教育が学力低下の理由」といふことなども、悉く否定される。

 とにかく痛快である。もちろん、これから何をどうしていけばいいのかといふことを明らかにしてゐるのではない。さうではなくて、何をするなら根拠を示せ、そしてその根拠は他国との比較において示せ、といふことを言つてゐるのである。

 その意味では、これからの教育問題を論じるには、由紀氏が言ふやうに本書を前提に論じなければならないだらう。

 この夏の重要な収穫であつた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絲山秋子『御社のチャラ男』を読む。そして「きみはいい子」を思ふ。

2021年08月16日 21時44分24秒 | 本と雑誌

 

 タイトルが気になつて手に入れ、この夏休み鞄に入れて大阪に持つて来た。

 ある会社の部長を務める男が「チャラ男」と呼ばれてゐる。本人も自覚してゐるやうな自覚してゐないやうなである。仕事といふ仕事もしたこともなく、アメリカに自分探しの旅に出て、日本に戻つて来てからもぱつとしなかつたが、とある事件でその会社の社長の目に留まり、部長として招かれた。

 話は、その会社の社員がそのチャラ男にたいしてどう思ふかといふスタイルで一章づつ語るといふ展開である。もちろん、本人にも一章が当てられてゐる。初めはそれぞれの人間模様が独立して語られるが、しだいにある人からはさう見えてゐたが、さう見えてゐた人にはその人なりの理屈があつて、読んでゐるこちらはその会社の内情が分かるやうになる。それでゐて、一切引き込まれるといふやうな感じではなく、「それで」といふ突き放したくなるやうな「ひどい会社」なのである。

 なるほどかういふう輩は男女問はずゐるよなと思ふところも、いやいやこれは自分の姿であるなと思はされる場面も出てくる。そして、しだいにその「ひどい会社」とは自分の所属してゐる職場であり、さらにはこれはきつと現代日本人の人間関係そのものなんだらうなと思ふやうになるから不思議だ。

 最後まで読んでも感情移入や同情は一切ないけれども、「嫌な感じ」が残つてゐるのは、きつと身につまされてゐるからなのだらう。

 ところどころに作者の観察眼の鋭さが胸に刺さる。それも「身につまされる」要因の一つである。

「チャラ男は頭がいい。責任感はないが危機管理能力は高い。そして常に自己中心だ。」

「もう今の世の中で、これまでの猿山は通用しないことを僕たちはみんな知っている。登山道は荒れ、斜面は崩壊している。」

「かれらはなにもかも会社が与えてくれるものだと思っている。仕事や賃金だけではく、休みも、苦痛も、不満も。だから願いが届かなければ、与えなかったのが悪いと言い出すのだ。」

「本当のことなんだからなにを言ったっていいじゃないですかと伊藤君は言うけれど、その理屈だと、人間のありのままの姿なんだから裸で歩いてもいいじゃないかということになってしまう。そんなの人間じゃなくて動物だ。」

 (蛇足ながら。不思議なことに、作者は2019年の時点でオリンピックまえにパンデミックがあるかもしれないと登場人物に語らせてゐる。オリンピック前の不穏な空気を感じてゐたのであらう。)

 この本を読みながら、先日観た「きみはいい子」の学級崩壊の様子を思ひ出してゐた。あるいは先崎氏の『国家の尊厳』も重なつた。私たちが生きてゐる集団が壊れてゐるのである。「会社員でいるということは、明確な役割で一つの時代を生きることなのだと。」といくら強がりを言つても、その会社は最後には社長の不祥事によつて他社に吸収されて行くことになる。もちろん、次の会社で生きて行くことになるのだが、「明確な役割を生きる」と本当に思へてゐるかどうかは疑問である。作者はさう登場人物に語らせるが、さうとさへ言へないところで生きてゐるとも感じてゐるやうだ。

 だから、終章末ではかういふ感慨を「御社のチャラ男」に語らせてゐる。

「幸せになるために生まれてきたのに、選んできたのは間違いばかりだった。(中略)才能がなくても、大失敗をしても、希望がなくても、それもで人は愛されたい。そして、生きていかなければならないんだ。」と。

「きみはいい子」と言つて欲しいのだ。

 またしても、ではその語る人は誰なのかを、この小説も示してゐない。誰に愛されたいのかが分からないのである。

 私が、「私たちが生きてゐる集団が壊れてゐる」といふのは、語る主体を見出さず、語る主体の不在を嘆いてゐるだけだといふことである。語る主体とは先崎氏の言ふ共同体でもなければ、コモン・センスでもない。私たちが相対である場所に立つ主体である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先崎彰容『国家の尊厳』を読む

2021年08月14日 19時41分15秒 | 本と雑誌

 

 

 このタイトルは、著者自身がつけたものなのだらうか。令和の日本の「国家」の在り方は、一人ひとりが人間の「尊厳」を取り戻すことにある、といふことをまとめると「国家の尊厳」になるといふことなのか。

 構への大きな評論で、40代の思想史家が書いた現代日本論である。基礎となる文献は、次の通り。

・モイセス・ナイム『権力の終焉』

・カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況』『政治的なものの概念』『政治神学』

・フュステル・ド・クーランジュ『古代都市』

・大田俊寛『グノーシス主義の思想――〈父〉というフィクション』

・ジャン・スタロバンスキー『透明と障害――ルソーの世界』

・マイケル・オークショット『増補版 政治における合理主義』

・山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』

・ハンナ・アーレント『全体主義の起原 3』

などである。

 さうした文献の数々の引用を丁寧に読み込みながら、日本の現在を語るといふ手さばきは見事といふ他はない。そして現在の日本社会(特にコロナ禍にあつてはといふことを先崎氏は強調する。なんとなれば、そのコロナ禍を最も速やかに克服して行つた国は中国であり、その全体主義体制に民主主義国は後れを取つてゐるといふ認識があるからに他ならない)は、自由と民主主義とで何とかなる状況ではない。シュミットが言ふやうに「民主主義による独裁が必要不可欠」なのである。議論だけしてゐる状況では遅すぎる。

 かと言つて三島由紀夫のやうに性急なテロリズム「行動」を採ることも諫めてゐる。それは政治音痴である。理想を現実化することに急ぐことは、現代の左翼青年たちが小熊英二の示すやうなデモ「行動」によつて民意といふ得たの知れない力に先導されながらエネルギーを消費してしまふのと同様、「熱狂の渦に自分を溶解させてしまう」といふ点で同じであると見る。まつたくその通りであらう。しかし、三島は名を残したが、デモ集団は霧消してしまつた。先導である小熊もまた消えていくと私には思へるが、中央論壇で書くにはそれは本音過ぎるだらうか。

 人間の尊厳を取り戻せと言ふ。そしてそれは歴史性を踏まへた共同体のなかでこそ実現するとも言ふ。その気分はたぶん多くの人に共有されるに違ひない。私なら、ここで近年よく言はれる「自己肯定感」といふ言葉に触れたい。この自分で自分を肯定するといふことの言葉遣ひが持つ息苦しさゆゑに私は金輪際その言葉を使ふことはないが、本書を読んでなるほどかういふ言葉遣ひが広まるのは人々が自分の尊厳が失はれてゐるといふことに気づいてゐるからなのかといふこと感じた。

 自己判断、個人主義によつて「~の自由」を実現するのが近代であると思ひ、信じ、実践してきた。ところが、じつはそれによつて自分の存立基盤が溶けて無くなつてゐることに気づいた。誰も私を私として認めてくれず、交換可能な個人として人がそこに存在してゐる、実存的不安を感じ始めることになつたのである。そのことをすでに1970年代に感じてゐた三島がそれを訴へ、人々をつなげる紐帯として天皇を求めて「行動」を起こしたとは、先崎氏も述べた通りである。

 共同体の喪失を言ふのであれば、祝祭日の「ハッピーマンデー化」にも触れたい。かういふ「合理主義」が日本の伝統と現代との紐帯をズタズタにするのである。経済合理性の名のもとに連休を作るといふ発想は、今回のオリンピック時の異様な祝日の移動にも感じたことである。

 先崎氏に期待したいのは、ではどこから始めるかである。

 本書では、宣戦布告はなされた。今後の「行動」に期待したい。

 小林秀雄は歴史を生きてみせた。福田恆存は国語の再興に賭けたが今のところ敗れてゐる。西部邁は諦めた。西尾幹二は書くといふ「行動」を示し続けてゐる。

 私の行動はと言へば、主戦場は教場での問答である。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井龍男の「青梅雨」

2021年08月11日 17時38分38秒 | 本と雑誌

 

 

 先日読んだ小林秀雄と岡潔の対談『人間の建設』に、永井龍男の「青梅雨」が話題になつてゐた。そこで読んでみた。

 小林は、「この小説に感心した」と言つてゐた。「モウパッサンにもチエホフにもないもの」とまで言ふ。「心理描写もなければ、理屈も何も書いていない。しかし日本人にはわかるのです。」とまで話してゐる。

 それで改めて読んで見た。

 一家心中の話であるが、その夜の家族の会話である。新聞記事に出た実際の事件から想を得た永井のオリジナル作品であるが、死を覚悟すると言つた気配はどこにもない。しかし、経済的な苦境ゆゑの心中である。新聞記者への嫌味を書いてゐるところなど、社会批評的な味付けもあるが、小説家の関心は、たぶんそこにはない。心中といふものに覚悟なく身をゆだねてしまふといふ日本人の心性への親和性である。別に肯定してゐるわけではない。しかし、非難は微塵もない。「こういう小説は、たしかに西洋人にはわかりにくい」と小林は言ふが、きつと現代の私たちにもわかりにくい。「不謹慎だ」と一括されるやうな時代の気分である。

 この小説を小林が話題にしたのは、岡が神風特攻隊で亡くなつた若人の精神を「死を見ること帰するがごとし」と言つたのを受けてのことである。すぐに引いてきたのではなく、しばらくしてから思ひ出して語り出したものだ。小林の頭のなかでその「死を見ること帰するがごとし」といふ言葉が反芻されてゐたのだらうと想像する。その意味は、「死とは、家に帰つてゆつたりと落ち着くやうなものだ」といふことだ。

 永井や小林や岡の時代には、かういふ生のあり方がきちんと社会に残されてゐたのであらう。それは生はいつでも死と隣り合はせであるといふ実感である。昨今のコロナ禍の政治家の右往左往、医療専門家のジャーゴン、マスコミの徒な危機扇動、国民の他責ぶり、いづれの裏面にも観念的な死への恐怖が貼り付いてゐる。だから、そこからは死を遠ざけることは可能であつても、生の充実には一向に向へない。皮肉に言へば、死を視界から遠ざけることで後ろから死が近づいてゐることに気づけないのである。

 青梅雨とは、六月の季語で、「雨降り続きで太陽を拝する回数が減るが、 その日の光を梅雨入り前にたつぷりと浴びた木々ははつらつとして、そ の葉の色を濃くする時期」といふ意味らしい。死してその生の色合ひが深くなる。永井は、その一家心中にそれを感じたのである。

 

 

私は、これで読んだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橳島次郎『先端医療と向き合う』を読む

2021年08月10日 22時13分59秒 | 本と雑誌

 

 

「ぬでしま」とお読みする。

 二か月ほど前だと思ふが、読売新聞が日曜日に連載してゐる「明日への考」で、この橳島氏のインタヴュー記事を読んだ。それがたいへんに面白く、簡単には結論を出さず考へつづけていくことの重要性を語つてゐた。それでこの方の本を是非とも読んでみたいと思つて見つけたのが本書である。

 この本もまつたく結論を出してゐない。「であらうか」「ではないだらうか」といふ疑問文が重ねられてゐるので、「先端医療」の最新知識をお手軽に得たいといふ動機の人には、不親切なものとして映るであらう。しかし、少なくとも将来医療に関はらうと思ふ人や、生殖医療にせよ安楽死にせよ身近な人がそれらに関はつた経験がある人には、とても大事な問題であると感じると思ふ。

「よく考へる」ことが私たちに日本人には少々欠けてゐるのではといふのが、筆者の思ひである。

 巻末には、フランスの「生命倫理法」の紹介がされてゐるが、「倫理」と「法」とは本来別次元のものであるからそれらを結びつけることはをかしいといふ議論がフランスではなされたといふ。しかし、日本ではさういふことはおきまい。なぜなら、言葉について精緻な定義をしながら議論を進めるといふ習慣が私たちにはないからである。もちろん、日本には「生命倫理法」はない。それは必要ないからか。違ふ。原理原則を打ち立てようといふ発想がなく、大学の倫理委員会等で事象ごとに検討すればよいと考へてゐるからである。しかし、それでは時々の国民感情によつて結論を左右されてしまふことになる。やはり日本にも原理原則は必要ではないか。それが本書を書いた本質的な動機のやうだ。

「第一章から第四章まで、医療技術の進展が私たちの生老病死にもたらす、様々な問いかけについてみてきた。問題は何かを偏りなく適切に問うことがだいじなので、一つ一つの問いかけについて、答えを出すことはしないできた。」とある通りである。

 生命倫理について、欧米にはキリスト教が思考の基本にある。それがない日本は問題かと言へば、さうではないと筆者は言ふ。むしろ特定の価値を持たない日本人こそ、議論を通じて誰の意見からも等距離の指針を作ることができると書く。

 しかし、私はそれには異論がある。議論を通じて結論を出すといふことを果たして日本人は得意とするかどうか。インフォームドコンセントが、圧倒的な知識を持つ医師による説明を患者が受け入れてゐるにすぎないと筆者が批判してゐたが、それと同じやうに圧倒的な知識を持つ人がその他の人を説得するか、あるいは自己の主張に閉ぢこもつてそれぞれが蛸壺化するかのどちらかだらう。自己を相対化するために必要なのは相対的他者ではなく、絶対的他者が必要である。それはやはり欧米に一日の長がある。私たちは歴史的に、強い集団と弱い自我と、強い集団と弱い集団としか経験してゐない。だからこそ、原理原則の必要を感じないのである。

 私はさう考へてゐる。とは言へ、重要な書である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする