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言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

小林秀雄・岡潔『人間の建設』

2021年08月02日 20時44分24秒 | 本と雑誌

 

 

 岡潔がなぜか知らないけれども再評価されてゐる。私は数学はからつきしなので、多変数だとか解析だとか函数論などいふのはまつたく分からないけれども(高校数学が得意だつたとして分かることではないとは思ふが)、岡潔の随筆を高校時代に読んでとても惹かれるものがあつた。最初に購入した全集はなんと『岡潔集』である。『福田恆存全集』も大事な本で同じく大学時代に購入したが、それは配本の度に購入して行つたので全巻が揃ふ前に『岡潔集』を手に入れてゐた。5,000円だつた。福田恆存全集は一冊5,500円だつたと思ふ。

 そんなことはともかく、岡潔の言ふことは今こそ読まれるべきである。しかし、それはいよいよそれが正しく評価される時代になつたからといふのではない。岡潔の主張と現代社会との間に絶望的な乖離があることを示してゐるからである。

 たぶん私の周囲の人間で、次の発言を真面目に受け取る人はゐない。

「いま日本がすべきことは、からだを動かさず、じっと坐りこんで、目を見開いて何もしないことだと思うのです。日本人がその役割をやらなければだれもやれない。これのできるのは、いざとなったら神風特攻隊のごとく死ぬる民族だけです。そのために日本の民族が用意されている。そう思っているのです」

 これを聴いてゐる小林も賛意を示してゐるかどうか定かではない。特攻隊のことに引き寄せて別の話題に移さうとしてゐるやうにも思へる。しかし、いまの私たちにはさういふ受け止め方もできまい。「何もしない」ことをし続け、小林のやうに心の目で見て「批評」するといふのでもなく、ただひたすら日常を行き、流され、いざといふ時が来ないことを願ひ、さうなれば逃げる。さういふ私たちに民族の役割意識などはない。言つてよければ、個人の生き方にさへ「役割」など求めてゐない。あるのは「自分の適性とは何か」「自分探し」「年収の多い職業は何か」ばかりである。

 小我を捨てることを求める岡の言動が変人としてしか見られなかつたのは、何もこの対談がなされた60年ほど前だけのことではなく、今も同じである。しかし、今はその変人が生きてゐないから気楽に読めるといふことにすぎない。

 私たちの国は絶望的に衰退してゐる、そんなことを読みながら感じた。

 小林や岡には愛情がある。そして信じるものを持つてゐる。近くにゐる人からは、二人は変人であつたらう。しかし、正統が異端視されるのがこの日本であるといふ逆説を理解するなら、それは当然のことである。恐れずに変人になれるか。刃物を腹に当てられるやうな書である。

 

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