メタ認知についての非常にわかりやすい書である。
非認知能力といふ言葉を学んだのが、5年前である。そして職場で伝へ保護者にも伝へて、社会的にも「認知」されてくるやうになつて一気に浸透して来たそれはそれで大変良いことで、学力をつけるにはコンピテンシーの要素が重要だといふことは当然と言へば当然のことである。
が、ここに来て非認知能力といふのはやはり認知能力なのではないかといふ思ひも出て来た。忍耐力はともかく批判的能力(クリティカルシンキング)といふのは認知領域であることは間違ひない。
したがつて、学力とは別の能力とは、メタ認知が出来る力とした方がいいやうに思ふ。
本書はそのガイドとしては最適である。一般書なので出典が明らかでないのが残念だが、それはネットで調べれば良い。
関心のある方はどうぞお読みください。
まさに今、何をおいても読むべき本である。さう思ふ。
空気が支配してゐる。しかも、それは空気であるがゆゑに次々に変化していく。そして、空気が入れ替はつたことに何の疑問も持たず、むしろ空気であるがゆゑに「生きていくために必要なもの」として進んで次の空気を受け入れていく。
あの内村鑑三でさへ、不敬事件を起こして天皇主権の明治国家にあつて神への信仰を貫いたあの内村鑑三さへ、山本によれば晩年には妥協してゐたと言ふ。(『現人神の創作者たち』)
さういふ日本の空気に闘ひを挑み、死んでいつたのが山本七平である、といふのが東谷氏の見立てである。私は、まだまだ山本の作品群を読んでゐる途中であるので断言はできないが、たぶんさうだらうといふ思ひが強い。こんな文章を読むと、その思ひは強くなる。
「私は、日本人が宗教的に寛容だという人に、この例を話す。これはどうみても寛容ではなく、ある『一点』に触れた場合には、おそるべき不寛容を示し、その人の人権も法的・基本的権利も、一切無視して当然だとするのである。」『空気の研究』
振り返つてみれば、「踏絵」の歴史も私たちのものであるし、大正時代の大本教事件も私たちの歴史である。「ある『一点』」とは何か。それが「空気」である。
本書の最後に、東谷氏はこれまでの「空気」を列挙する。バブル経済、選挙制度改革、安全保障政策の無作為、アメリカ的コーポレートガバナンス、社外取締役制度、創造的会計、構造改革、コンクリートから人へ、再生エネルギーへの転換、緊縮財政と財政出動、生前退位などなど。これらは、何ら合理的、法的に整理され考へられた結果ではない。時の空気をすくひあげた「空体語」である。
組織を作り上げる原理=忠が、家族的なコミュニティの原理=孝によつて浸食されるから、その発言や方針が誰が語つたのかといふことに重きが置かれてしまふ。すべて擬制的家族主義が支配してゐるのである。
これらはさうやすやすと解決できる課題ではないだらう。しかし、そのことに気付かないと困る。そんな時代状況である。
昨今の世相を見てゐて、どうやら日本人は病んでゐるなといふ思ひを深くした。もちろん、その日本人に私も含まれてゐる。病んでゐる人が他人を病んでゐると判断できない理屈はないのであつて、むしろ自分も同じ症状を体験してゐるのであるから余計に正確に判断ができるといふこともある。
そんなこともあり、「日本人といふ病」といふ小論を書いた。いろいろと文献を読まうと思つてゐたが、あれやこれやと思ひをめぐらしてゐるうちに、文献を引用するより現状を正確に描写した方がよいと思つて書き上げた。
そして、ふと書棚を見るとこの本が眼に入つた。「日本病」、同じことを感じてゐるのかなとも思ふ。さう言へば河合隼雄にはタイトルも同じ『「日本人」という病』といふ書まである(こちらは病を困つたものだと見るよりは、こんな病ですから気をつけませうといふ感じで、河合らしい)。岸田秀も河合も同じく精神分析家である。立場は異なると思ふが。やはり日本人は精神分析の対象になるのであらう。
さて、本書であるが、病のポイントは二つ。
1 日本の社会には神がゐない。したがつて、人と人との間の関係しかなく、契約(法)意識は薄く話し合ふことで解決できると考へてゐる。お化けが出るのは日本だけ。個人的な怨みを法で裁いて解決するのではなく、当事者間の「話し合ひ」で解決しようとする。「怨めしや」とは話し合ひの呼びかけである。
2 機能集団が共同体になつてしまつてゐる。儒教には組織と血族とに対してそれぞれ別々の態度を取れといふ考へがあるのに、日本人は組織をすぐに擬制家族に見立ててしまふので混同する。組織では「三度諫めて聞かざれば即ち去る」、父に対しては「三度諫めて聞かざれば号泣してもこれに従ふ」。しかし、組織においても後者を取るから組織が崩壊する。
私の読んだ本(1996年 文春文庫版)は解説が小室直樹である。これがまた素晴らしい。二人の「素人談議」を社会学者として補助線を引き、議論の観点をクリアに引き出す。上の私の「ポイント」もその恩恵による。
何度でも読むべき書である。
タイトルの両義性が面白い。その人は「すぐそば」に存在してゐるのに、はるか「彼方」にゐるやうに感じる。それは逆にはるか「彼方」にゐるやうに思つてゐたのに、実はすぐ「そば」に存在してゐたといふことにも通じてゐるのかもしれない。
この小説の主人公は、まさに周囲にさう感じて生きてきた存在であつた。しかし、果たして周囲の人からはどう見られてゐたのだらうか。いまこの文章を書きながらそんなことを感じてゐる。主人公は、次期総理大臣を目指す政界の大物の次男として生まれ、経済的には何不自由なく暮らしてゐた。その立場でしか分からない苦労はあるのだらうが、お坊つちやま君のやうにも感じてしまふ。主人公視点で書かれてゐる小説だから、すぐ「そば」にゐながら「彼方」にゐるやうに感じる周囲の人の印象は、主人公から見た存在感である。しかし、俯瞰(周囲の人からの視点)的に見れば、いつも現実から逃げてばかりゐるわがままな人といふやうに見られてゐたのではないか。「すぐそばの彼方とは、あなたのことよ」と周囲の女性たちから言はれてゐるやうにさへ感じた。主人公視線で描きながら、読者にはむしろ逆に周囲の人から見た主人公の姿を印象的に記憶させるといふこの作家の描き方は、それが意図的なのか無自覚なのかは分からないが見事である。
「薫(註 事件を起こして苦しんでゐた時代の主人公を支へてゐた女性)はあんなにもすぐそばにいてくれたのに、自分の心はこんなにも彼方に離れてしまっている。すぐそばにある最も大切なものほどいつも遠い彼方にあるのかもしれず、遠い彼方にある最も大切なものほど本当はすぐそばにあるのかもしれない」
小説の最後のところで主人公が「とりとめなく考えた」ことである。ここだけ読んでも、「いい気なものだな」と思へて来ないだらうか。少なくとも私にはさう読めた。恵まれた人間の成長は、これほどに難しいのかと思つたのである。
ところで、主人公は政治家の息子なので、政治の話題が多い。経済の話が多い白石氏の小説としては珍しいのかもしれない(今まで読んだなかでは初めて)。政治についての作家の考へが興味深かつた。
「理想世界はこの世では決して実現し得ないと確信しておる。であるならば、政治家の唯一の役割は、自分の生まれ育った国家国土国民をその国家国土国民らしく保つことなのだ。日本は日本らしく生きねばならぬ。日本人は日本人らしく生きねばならない。また、そうする以外にこの国もこの国の民も生き延びていく道はないのだ。」
多様性礼賛の時代にあつて、かういふことが小説にまともに書かれてゐることがとても気持ち良い。これが主人公の父親である龍三の言葉である。それに対して、主人公龍彦はかういふ考への持主である。
「いつの時代にも国民が政治に批判的な無関心を示すのは、政治家という職業自体への侮蔑があるからだと龍彦(註 主人公)は思っている。政治などに首を突っ込もうと考える人間そのものが多くの人々は嫌いなのだ。それはさながら宗教者に対して大多数の人間が持つ違和感と似ている。龍三(註 主人公の父親)は人間の合成こそが政治であり、そこにのみ人の世の奇跡があるとさきほど語っていたが、しかし、人間は公共という名の下、あるいは真理という概念の下に個々人ではなく集合として取り扱われることが根本的に不愉快なのだ。」
2022年の現状を思へば、やはり龍彦の言に国民感情は近いのであらう。「日本人らしく」、「公共」を意識して生きる、「真理」を求めて生きることは忌避されてゐる。まさにそこには「どこの国民でもない、私を意識し、無節操に生きる」人だけがゐるのであり、隣にゐる人もまた「すぐそばの彼方」にしか感じられないといふことである。
最後に、この小説の書き方について。ある人物についてほとんど説明なくその人が現れる。そして、その人物と主人公との関係が次に書かれていくといふスタイルである。この作家の描き方であるのかもしれないが、最初は戸惑ひがあつた。言つてよければ読みにくかつた。が、しだいにぐんぐん話に引き込まれていき、大きな世界に連れて行つてくれた。
やはり白石一文はいいと思つた。