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言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』を読む

2022年08月09日 15時16分21秒 | 本と雑誌

 

 

 出版は2006年だから、「教育論議」を語るには古い本である。話題の中にも、詰め込み教育とゆとり教育のことが出て来ることもある。しかし、そこで語られる問題点は、今も十二分に通用する事柄である。

 それだけ「教育論議」が正常化してゐないといふことでもあるが、じつはそれは「教育論議」に限らないといふことなのである。同質性社会である日本では、例へば「道義的責任を取る」といふ言葉一つ取つてみても、それを盾に攻め込む人の「道義」や「責任」と、それに答へる人のそれらとは共通するものがない以上、「道義的責任を取りました」と言はれればそれ以上は議論ができないといふことである。アカウンタビリティといふ言葉も俎上にのぼるが、それを「説明責任」と訳してゐるかぎりは、「説明」すれば「責任」を果たしたといふことになる。

 これらの何が問題か。同質性社会に永らく生きてきた私たちには「道義」や「責任」や「説明」について、当事者どころかすべての人に対して負ふべき義務となつてゐる。しかし、多様で多層な近代社会においては、それらは誰かと誰かとの間において果たされるべき責任や義務なのである。

 例へば、今ネットで見つけた次の文をご覧いただきたい。

 It is difficult indeed to document accountability for one's practice without an explanatory framework within which to evaluate practice.

 実践を評価するための説明的な枠組みがなければ、個人の実践に対する説明責任を文書化することは実際に困難です。

 

 これは極めて明確だが、個人の実践について説明の任を負ふべき対象は、その評価者に対してである。その関係において生じる説明の責任と、その関係を維持してゐることこそがアカウンタビリティなのである。したがつて、その関係が維持できてゐなければ、アカウンタビリティは果たされてゐないといふことになる。

 道義も同じで、追及する側が求める道義と、追及される側の道義とが、事前に話し合はれ、確認し、共にそれを道義としてゐないのであれば、そこには「道義的責任」は存在してゐない。追及されるべきは契約内容であり、そこに明らかな法律違反やルール―違反がなければ、道義的責任といふ同質性社会の魔法の言葉を使つて、相手を恣意的に責め込むことはできない。欧米の社会が契約社会であるとは、近代社会とは多様性の社会であるといふ理解が、私の言葉で言へば断念があるといふことである。

 かうしたことが、現状認識、原因の解明、目的設定、手段開発、あらゆることで起きてゐると言ふのだ。大変耳が痛くなる言葉の連続である。しかし、教育が何のためにあるのかも明確にせずに、教育論議がなされることはやはり不幸であることは間違ひない。

 なすべきことは多い。しかし、大事なヒントをもらつたことは事実である。

 

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白石一文『彼が通る不思議なコースを私も』

2022年08月07日 11時09分47秒 | 本と雑誌

 

 

 先日読んだ『翼』と同様、主人公は女性である。魅力的な「彼」との出会ひから、十年ほどの間の出来事(と思ひきや最後にさうでないことが明らかになる)。

 教員である「彼」の言葉には、異論もないわけではない。が、なるほどと思はせる言葉が多くあつた。

「医学の力が恒常性と自然治癒力に依拠しているのと同じように、教育の力は、人間そのものの変化の力、成長の力に大きく依存している。だからこそ、教育にはうわべだけでなく、人間を根底から変えていく力がある。」

「だからこそ」の後には、果たしてさうなのかといふ疑問がある。本当に教育にさういふ力があるのであれば、現代の日本の状況からは日本の教育が絶望的であることだけが明らかになつてしまふ。個人主義、民主主義、平和どれ一つとつても「根底から」考へることをしない「うわべだけ」の理解に留まつてゐる。

 しかし、「だからこそ」の前の「教育の力は、人間そのものの変化の力、成長の力に大きく依存している」は、その通りだらうと思ふ。教育を過信するな、そして、教育にできなくとも人は育つ、私はさう理解した。

 さうでなければ、絶望しかないではないか。

 私は、この言葉を激励の言葉と受け止めた。

 

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白石一文『翼』を読む。

2022年08月03日 09時11分30秒 | 本と雑誌

 

 しばらく小説は白石一文と決めてゐる。気分的な正確さを言へば、白石一文になる、かな。いい小説に出会へるか出会へないかは、生活するにおいて重要な位置を占める。仕事柄、小説は興味関心とは離れてでも読むが、それでも趣味の読書は面白いものでありたい。

 その点で、白石一文には今のところ満足してゐる。

 今回の小説は、女性が主人公。会社に勤める仕事の出来る人物であることは、これまでとあまり変はらない。正直に言へば、女性であるといふことを自覚しないまましばらく読んでゐた。

 いろいろな話が筋を描きながら、最後には収斂していくのもいつも通り。だが、今回のものは結構寂しい終はり方であつた。隠れたテーマは死であるやうにも思ふ。

 

「たとえ自分自身が死んでも、自分のことを記憶している人間がいる限り完全に死んだことにならないんなら、逆に、自分が生きていても、その自分のことを知っている人間が死んでしまえば、自分の一部が死んだことになる。」

 

 主人公を愛する男の言葉だが、この主題が作品の底に流れてゐるやうに感じた。

 小説の最後に、浜松市にあるといふ或る画家の絵を収集した美術館の話が出てくる。その画家の作品が題名の「翼」に関はるのだが、この画家や美術館はどうやら創作のやうで実際には存在してゐない。

 まるまる他人の小説を引用するといふアクロバティックな趣向があり、冒険的でもある小説だ。

 暑い夏にこそ読んではどうかと思ふ小説である。

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村上陽一郎『エリートと教養』を読む

2022年06月13日 15時25分25秒 | 本と雑誌

 

 

 

 村上陽一郎は、ここぞといふ時に大事なことを書いて指摘してくれる碩学であると思つてゐる。反知性主義といふ言葉の誤用も、コロナ禍の日本の政府の対応の不備も、きちんと指摘してくれてゐた。

 『村上陽一郎全集』なるものがどうして出ないのか不思議であるが、体系だつた文章を書かれないからであらうか。教養人といふものの役割を十分に果たされてゐるかういふ方の文章は、きちんとまとめていくのが出版社の現代的意義であらう。

 本書は、必ずしも一つのことを目指して書かれてゐるものではない。言つてよければ「エリートと教養」といふタイトルをつけることで、逆にさういふ主旨なのかと気づかせてくれる内容である。途中、現代日本語や音楽の話になつたときには、少々タイトルとの齟齬を感じたくらゐである。それよりは、むしろ副題の「ポストコロナの日本考」の方が要領を得てゐる。が、それでは読者は何のことかは分からない。手にして本を読ませるにはその「考」の中身を示さなくてはならないからだ。

 本書は教養人が現代日本を、あるいは現代日本人をどう思つてゐるのかを、結構厳しい筆遣ひで書かれてゐた。孔子は「唯(ただ)女子と小人とは養い難しと為す。之を近づければ則ち不遜なり。之を遠ざくれば則ち怨む」と言つてゐるが、まさにかういふことを直接言はれれば「怨む」こと必至の言である。それでも敢へて村上氏は書くのは、教養人としての使命があると自覚されてゐるからだと思ふ。本物のエリートである。

「自らの規矩はしっかりと定め、守りながら、それ以外の規矩に従って行動する人々を理解するだけの自由度を、自らのなかに持ち続けること、これも『教養ある』ことの一つの局面であります。」

 この一言を以て、氏が世の諸事象についてどのやうに考へ、どのやうに行動し、そして人々にどのやうに語り掛け、話を聴いて来たのかが分かるやうに思へた。厳しい人であると思ふ。学問の師として接すれば、きつと字句の一つ一つにまで赤字を入れられるやうな人であるとは思ふ。が、それでも変はらずに教へ導くことを止めない方のやうに思へた。

 ちなみに、氏は私的な文章は歴史的仮名遣ひで書かれてゐると言ふ。かういふ方が今もゐるといふことが嬉しかつた。

 

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ヘッセ『クヌルプ』を読む

2022年05月15日 10時44分03秒 | 本と雑誌

 

 

 知り合ひのFacebookのタイムラインでこの本が紹介されてゐたので読んでみた。新潮文庫の新版で字も大きく160頁足らずの本であるが、正直すらすらと読めるものではなかつた。

 少年が初恋を抱いた年上の少女に裏切られたことから始まる漂泊の人生に共感が抱けぬままに、それでも読み続けたといつた感想である。

 しかし、この少年クヌルプが聖書を頼りに自分の生き方を尋ね歩く生き方は、『デミアン』や『車輪の下』に通じるもので、さういふ言葉に出会ふと上質なヨーロッパ人の生き方を感じることができた。

「だが、ね、仕立屋さん、きみは聖書に注文をつけすぎるよ。何が真実であるか、いったい人生ってものはどういうふうにできているか。そういうことはめいめい自分で考えだすほかはないんだ。本から学ぶことはできない。これが僕の意見だ。聖書は古い。昔の人は、今日の人がよく知っていることをいろいろとまだしらなかったのだ。だが、だからこそ聖書には美しいこと、りっぱなことがたくさん書いてある。ほんとのことだってじつにたくさんある。」

 さう悟つたかに見えるクヌルプだが、そんなことはない。人生をどんなに美しく生きたとしてもそれは誰かと共有できるわけではない。死んでしまへばそれで終はりだと考へるクヌルプにたいして、時にこんな言葉を投げかけられる時もある。

「それはおもしろくない話だね、クヌルプ。人生には結局意味がなければらない。だれかが、悪い人でなく、敵意を持たず、やさしく親切であったとすれば、それで値打ちがあるということを、ぼくたちはたびたび話しあったじゃないか。だが、いまきみの言ったとおりだとすれば、何もかももともと同じことになる。盗みをしたって人を殺したって同じようにいいことになる。」

 クヌルプは考へる。悩んでゐると言つた方が正確かもしれない。しばらく経つた場面で、こんな言葉が記されてゐる。

「人間はめいめい自分の魂を持っている。それをほかの魂とまぜることはできない。ふたりの人間は寄りあい、互いに話しあい、寄り添いあっていることはできる。しかし、彼らの魂は花のようにそれぞれその場所に根をおろしている。どの魂もほかの魂のところに行くことはできない。行くのには根から離れなければならない。それこそできない相談だ。花は互いにいっしょになりたいから、においと種を送り出す。しかし、種がしかるべき所に行くようにするために、花は何をすることもできない。それは風のすることだ。風は好きなように、好きなところに、こちらに吹き、あちらに吹きする。」

 風とは何か。それについてクヌルプは答へてゐない。魂の孤独を記すばかりである。

 第三部は、「最期」と名付けられてゐる(一部は「早春」、二部は「クヌルプの思い出」である)。雪降る街に疲れ果ててクヌルプは眠つてしまふ。神との対話に安堵してゐるかのやうである。神の言葉が記されてゐる。

「わたしが必要としたのは、あるがままのおまえにほかならないのだ。わたしの名においておまえはさすらった。そして定住している人々のもとに、少しばかり自由へのせつないあこがれを繰り返し持ちこまねばならなかった。わたしの名においておまえは愚かなまねをし、ひとに笑われた。だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。おまえはほんとにわたしの子ども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ。わたしがおまえといっしょに体験しなかったようなものは何ひとつ、おまえは味わいもしなければ、苦しみもしなかったのだ。」

 かういふ境地は、もちろん孤独ではないのだらう。ただ、その感じも味はひも「風」がない限り知らせることも受け取ることもできない。ヘッセは、この小説を書き、それに「風」の役割を持たせた。クヌルプといふ人を私たちは知ることができたのはその小説のおかげである。

 神と私。その単独者同士の対話がキリスト教の真髄である。しかし、それが同じく隣の人とも対話を可能とする、いやすべきであるといふことの知らせのために文学がある。この小説の優しい印象は、静かにそれを伝へてくれた。冒頭に記した「上質」とはさういふことだらうと思つてゐる。

 

 

 

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