出版は2006年だから、「教育論議」を語るには古い本である。話題の中にも、詰め込み教育とゆとり教育のことが出て来ることもある。しかし、そこで語られる問題点は、今も十二分に通用する事柄である。
それだけ「教育論議」が正常化してゐないといふことでもあるが、じつはそれは「教育論議」に限らないといふことなのである。同質性社会である日本では、例へば「道義的責任を取る」といふ言葉一つ取つてみても、それを盾に攻め込む人の「道義」や「責任」と、それに答へる人のそれらとは共通するものがない以上、「道義的責任を取りました」と言はれればそれ以上は議論ができないといふことである。アカウンタビリティといふ言葉も俎上にのぼるが、それを「説明責任」と訳してゐるかぎりは、「説明」すれば「責任」を果たしたといふことになる。
これらの何が問題か。同質性社会に永らく生きてきた私たちには「道義」や「責任」や「説明」について、当事者どころかすべての人に対して負ふべき義務となつてゐる。しかし、多様で多層な近代社会においては、それらは誰かと誰かとの間において果たされるべき責任や義務なのである。
例へば、今ネットで見つけた次の文をご覧いただきたい。
It is difficult indeed to document accountability for one's practice without an explanatory framework within which to evaluate practice.
実践を評価するための説明的な枠組みがなければ、個人の実践に対する説明責任を文書化することは実際に困難です。
これは極めて明確だが、個人の実践について説明の任を負ふべき対象は、その評価者に対してである。その関係において生じる説明の責任と、その関係を維持してゐることこそがアカウンタビリティなのである。したがつて、その関係が維持できてゐなければ、アカウンタビリティは果たされてゐないといふことになる。
道義も同じで、追及する側が求める道義と、追及される側の道義とが、事前に話し合はれ、確認し、共にそれを道義としてゐないのであれば、そこには「道義的責任」は存在してゐない。追及されるべきは契約内容であり、そこに明らかな法律違反やルール―違反がなければ、道義的責任といふ同質性社会の魔法の言葉を使つて、相手を恣意的に責め込むことはできない。欧米の社会が契約社会であるとは、近代社会とは多様性の社会であるといふ理解が、私の言葉で言へば断念があるといふことである。
かうしたことが、現状認識、原因の解明、目的設定、手段開発、あらゆることで起きてゐると言ふのだ。大変耳が痛くなる言葉の連続である。しかし、教育が何のためにあるのかも明確にせずに、教育論議がなされることはやはり不幸であることは間違ひない。
なすべきことは多い。しかし、大事なヒントをもらつたことは事実である。