ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(158) 疱瘡の仏たち(曽根天満宮)

2015-03-20 08:42:54 |  ・高砂市曽根・北浜町

    疱瘡の仏

 庖瘡の神様と呼ばれている板碑が、曽根天満宮の境内にあります。

 この板碑については、現在のところ文献的資料はまったく残っていません。

 それに、磨滅がはげしく、その詳紬について調査研究するのも困難な状態です。

 神社境内にあることから、石神であるとも認められていましたが、一見して三尊石仏であると想像されます。

    薬師三尊か?

 高さ5尺1寸、幅2尺8寸、厚さ6寸の碑板上部に中央本尊立像、左右に脇侍立像二尊があるのですが、直ちに何像であると確定するのは困難です。

 さて、この石仏について、神社境内に石仏があるということは、規在人から考えれば不可解ですが、少し年代をさかのぼれば、神仏混淆時代でした。

現在、この像を人々は「疱瘡の神さん」と呼んでいますが、明らかに仏さんであり、仏さんが神さんに間違って呼ばれたと考えられます。

 それでは、宮神社境内の石仏は、何尊であるかということになるのですが、俗に庖瘡の神さんと呼ばれ、こんにちまで、それが伝承されてきているところから、考えられるのは、仏の中でも医薬をうけもつ薬師如來と想像されます。

 磨滅が甚だしく、また、火災にあつた跡も見られ、甚だしく損傷しているようです。

 火災については、神社が天正時代、農臣秀吉の毛利攻めの折、焼失したと神社調書は記録しています。

 ともあれ、現在三尊石僚であることは充分認められますが、何像であるかは断定することはできません。

厨子をもつ三尊石仏です。

 また、時代は屋根のそりとか棟の反りとかにより、その力強さは鎌倉時代のものと思われます。鎌倉期より下ることはないと考えられます。(no2735)

 *『郷土志(第4号)』(論文:「天満神社境内石仏について」本郷晋吉)参照

 *写真:疱瘡の石仏(曽根天満宮)

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高砂市を歩く(157) 小林一茶の歌碑

2015-03-19 08:09:17 |  ・高砂市曽根・北浜町

   小林一茶、曽根天満宮を訪れる

 一茶は、曽根天満宮を訪れ、次の句を詠んでいます。

   散り松葉 昔ながらの 掃除

 一茶は、宝暦13年(1763)に生まれ、文政10年(1827)に没しました。

 一生を通じて家庭的には恵まれず、そのため、不幸な環境にある若への同情と、強者への反感があった、とされています。

 歌碑の歌は、寛政7年(1795)、32才のとき西国を旅し、姫路から曽根・高砂を歩いていますが、その時の句です。

 『西国旅日記』に「3月13日にこの句を成した」と記しています

    一茶と布舟

 一茶と高砂の俳人・布舟(ふしゅう)は、どうした経緯で知り合ったのかは定かではありません。

 一茶は、寛政7年(1795)、32歳の時、西国への旅にでました。

 3月13日、当地方に立ち寄り、曽根天満宮の松を見たり、石宝殿を訪れたりしています。

 その日、布舟宅を訪れ泊まっています。

 小林一茶と田中布舟については「高砂市を歩く(no91)・一茶と布舟」をご覧ください。(no2734)

 *『東播磨の文学碑』(東播磨文化団体連合会著)参照

 *写真:一茶の歌碑(曽根天満宮)

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高砂市を歩く(156) 入江樵風の歌碑(曽根天満宮)

2015-03-18 08:38:27 |  ・高砂市曽根・北浜町

      入江樵風の歌碑

 「曽根の松」の話題を続けます。

 曽根天満宮の古霊松殿の前に入江樵風の次の歌碑があります。

   枯れて猶 千年の花や 曽根の松

 入江樵風は、近批・近代を通じて曽根町の豪家として知られる入江家の人で、多数の著書があり、江戸末期の曽根の歴史を知る貴重な文献にもなっています。

 寛政4年(1792)に生れ、嘉永元年(1848)に没しています。

 初代曽根の松は「天下にならぶものなしとさえいわれた"名松"であった」とされますが、寛政10年(1798)、枯亡してしまいました。

 その古霊松は、今はりっぱな殿舎に保存されています。

 幹まわりは、1991年の実測値で570センチあり、曽根の松が元気な時の勇姿を彷佛させるに充分です。

 天満宮を訪ねられた時、古霊松殿をのぞいてください。

 その大木のすごさに圧倒されます。

 その殿舎の前に台石と共で250センチもの青石に刻まれている上記の歌碑(写真)の歌をお詠みください。

 松の歴史を知るものには、嬉しい句碑です。(no2733)

 *『東播磨の文学碑』(東播磨文化団体連合会著)

 *写真:入江樵風の文学碑

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高砂市を歩く(155) 心池(曽根天満宮)

2015-03-17 08:27:16 |  ・高砂市曽根・北浜町

 「高砂を歩く(154)・曽根天満宮の石橋」で、少し説明しましたが、石橋のかかる池は「心池」です。

 「心池」というのは、池の形が「心」といふ字の形になっているためです。

 南の方から、池をもう一度ご覧になってください。確かに、心の形に造られています。

    伝承・心池

 享保(1716~1736)の初め項です。二代の曽根の松が枯れかかったことがありました。

 春だといういのに、新しい芽も伸びず、緑の色もだんだん色あせていくようで、当時の宮司は、心配でたまりませんでした。寝ても起きてもいたたまれない気持でした。

 春の暁のことでした。

 いつものように、ご祈祷をすませてから、社殿に続く「観松殿」に入り、隅に座って衰えた松を眺めていました。

 水もやりました。肥料も与えました。いろいろと手をつくしたのですが、だめでした。

 松の勢いは衰えるばかりです。

 苦悶している宮司の傍で「・・・憂うるには及ばない。松の傍に一つの池を造るがよい・・・その池は、必す「心」という字の形に掘れ。そうすれば、神の心と人の心とが一体になり、この松は立派によみがえるであろう・・・・」と告げる声がはっきりと聞こえました。

 夢と現の境で聞いたようです。

 ハッとして目を見はると、白髪の老翁が境内社の方へ足早に進まれるではありませんか。そして、「すっ」と消えました。

 こうして「心池」は造られ、二代目の松の勢いはよみがえったということです。(no2732)

 *『郷土志(第二号)』(郷土志社)参照

 *写真:心池(曽根天満宮)

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高砂市を歩く(154) 曽根天満宮の石橋

2015-03-15 06:48:18 |  ・高砂市曽根・北浜町

   曽根天満宮の石橋

 昔、曽根天満宮は「曽根の松」でその名を知られていました。

 石橋の説明の前に、曽根の松の説明(ウィキペディアより)を読んでおきます。

   曽根の松   *文体を変えています

 道真が手植えしたとされる松は霊松「曽根の松」と称されました。

 初代寛政10年(1798年)に枯死したといわれています。

 1700年代初期に地元の庄屋が作らせた約10分の1の模型が保存されており、往時の様子を知ることができます。

 天明年間に手植えの松から実生した2代目の松は、大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されましたが、昭和27年(1952年)に枯死してしまいました。

 現在は4代目です。枯死した松の幹が霊松殿に保存されています。

    技術の粋をつくした石橋

 現代の曽根の松は5代目ですが、2代目の霊松が衰弱した時、神のお告げで、松の東に「心」の字形に池を掘ったら、樹勢が回復したと伝えられています。

 その「心池」にゆるやかな曲線をえがき、華麗な彫刻美を誇る石造りの橋が架かっています。

 この橋は、享保八年(1723)、曽根の庄屋・河野貞清が寄進した石橋で、勾欄(手すり)の透し彫、擬宝珠(ぎぼうし・欄干の柱頭の宝珠型の飾り)の飾り彫りは、この地方では比べる物のない、技術の粋を集めたものです。

 石工の心意気が伝わってきます。(no2730)

 *その天満宮の石橋

 *『高砂の史情』(森村勇著)参照

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高砂市を歩く(153) 曽根天満宮の梅

2015-03-14 07:59:10 |  ・高砂市曽根・北浜町

  前号で、日笠山山頂近くにある、「官公の腰かけ岩」を紹介しました。

 高砂市観光協会の次のような説明がありました。

 「菅原道真が、大宰府に流される途中に、当地(日笠山)に立ち寄り、この岩に腰かけ、お休みなられ、四方を眺めて、「吾につみなくば栄えよ」と小松を植えられました。

 それが曽根天満宮の霊松と伝えられています・・・」

 そうすると、次に曽根天満宮へ出かけなくてはなりません。

    梅が満開の天満宮

 この時期、菅原道真を祭る曽根天満宮は梅の花で埋まっています。

 「ひろかずのブログ」では地域の歴史を中心に紹介していますが、今日は春の陽気に誘われて、ゆっくり曽根天満宮の梅を見学しましょう。

 8日(日)孫と出かけました。みごとに梅が満開でした。

 ビールが大好きです。梅の花のない、天満宮・菅原道真は気の抜けたビールのように感じますね。

 歌心のない私でも、次の道真の歌だけは自然に出てきます。

   東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花

        主なしとて 春なわすれそ

 曽根天満宮には約40種約150本の梅があり、順次開花しているそうですが、この日の梅は、全種類が一斉に咲いているようなで見事さでした。

 明日(15日)の日曜日も、まだ満開の梅が楽しめます。

 お出かけください。

 くどい説明は不要です。(no2729)

 *写真:曽根天満宮の梅(撮影は8日、日曜日)

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高砂市を歩く(152) 道真の腰かけ岩 

2015-03-13 07:42:14 |  ・高砂市曽根・北浜町

   菅原道真

 菅原道真についての物語は、ここでは省きますが、道真は藤原氏の讒訴(ざんそ)にあい、突如大宰府(福岡県)に流されました。

 道真は、延喜3年(903)、失意のうちに大宰府で亡くなります。59才の人生でした。

 道真の死後、京都では天変地異がしきりにおきました。

 旱天・流星・大地震、そして疫病などが続き、貴族たちは道真の怨霊が京の空に舞い戻って来たのではないかと噂し、動揺ははなはだしいものがありました。

 このため、朝廷は神社を建立して、道真の霊を慰めようとしました。

 道真の怒りが雷神として現れたと信じた藤原貴族たちには恐怖でしたが、道真は農民にとって雷は雨と水をもたらし、稲の実りをもたらす神として全国にひろがりました。

 菅原道真が、大宰府に流される途中、日笠山で休憩をとられたという伝承があります。

 先日、その場所に出かけました。高砂市・同観光協会の次の説明がありました。紹介しましょう。(文言は、少し書き変えています)

   腰掛岩の伝承

 菅原道真が、大宰府に流される途中に、当地(日笠山)に立ち寄り、この岩(写真)に腰かけ、お休みなられ、四方を眺めて、「吾につみなくば栄えよ」と小松を植えられました。

 それが曽根天満宮の霊松と伝えられています。

 万葉集に、次のような歌があります。

 「印南野は行き過ぎぬらし 天伝ふ 日笠の浦に 波立てり見ゆ」

 当時のこの辺りの海は入江をつくり、美しい景観を見せていたことでしょう。

               高砂市・高砂市観光協会

 次号では、曽根天満宮を訪ねることにします。先週の日曜日天満宮へ出かけました。天満宮は梅の花で埋まっていました。(no2728)

 *写真:腰かけ岩(日笠山の頂上付近)

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高砂市を歩く(151) 日笠山貝塚(2)・日笠山縄文人

2015-03-12 07:46:17 |  ・高砂市曽根・北浜町

   日笠山縄文人

 日笠山貝塚の調査中、縄文人の出土がありました。

 人骨は径約80センチ、深さ約40センチの穴に、足を抱きかかえるようにして埋めてありました。

 屈葬です。

 穴の上には長さ30センチばかりの平らな石を置いて蓋とし、そのまわりには数個の石をならべてあり、まわりの石は平らな石より高い位置にあり、ここは墓であることをしめしているようです。

 日笠山貝塚で人骨が出土したのは一ヵ所だけですが、おそらくそのあたりは墓地であったのでしょう。

 埋葬にあたって胸に石を抱かせたり、頭に土器を被せたりすることがしばしば見られます。

 屈葬とともに、縄文時代の埋葬の特徴です。死霊を封じ込め、その活動を妨げるための処置ではなかったかといわれています。

   抜歯の風習

 また、歯が張り出して小さなすき間になっています。

 これは犬歯が、死後に脱落したものではなく、生前に人為的に犬歯を抜くか、治癒したと思われます。

 古人骨には、あるべき歯がなく、骨の治癒したものが、しばしば見られます。

 古くは旧石器時代人骨にもみられますが、もっとも数多いのは縄文時代後期から弥生時代前期の人骨です。

 縄文時代後期の人骨のほとんどは犬歯、切歯のいずれかの歯がありません。

 しかし、その他の歯が抜けていることは少ないのです。(no2727)

 *『加古川市史(第一巻)』(加古川市)参照

 *写真:日笠山貝塚出土の縄文人の男性人骨『兵庫探検(歴史風土編)』(神戸新聞社)

 

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高砂市を歩く(150) 日笠山貝塚(1)・貝塚

2015-03-11 08:05:32 |  ・高砂市曽根・北浜町

   日笠山貝塚

 浜国道(国道250線)で高砂市曽根町の中心部を西に抜け、天川を渡ったところに小さな台地があります。

 高さ約60㍍の日笠山を中心に伸びる台地で、日笠山貝塚は、この台地の南端にあります。

 古くから貝殻山と言われていながら、この日笠山貝塚の研究は、昭和37年までおこなわれていませんでした。

 それから4年をかけての調査の中で、遺跡の実態が明らかとなりました。

 この貝塚には、多くの謎がありました。

 形成された時期は、縄文時代前期(約7000年前)から晩期(2500年前)まで、ざっと,5000年間に及んでいます。

 ところが、貝塚の広さは長さ約40㍍しかなく、期間に比べて規模が極端に小さいのです。

 さらに魚の骨、石のオモリ、ヤスなどの漁具類がほとんど出土していません。

     美味で大型の貝を採る

 昭和43年に高砂市教委が刊行した『日笠山貝塚、第二・三次発掘調査報告書』によると、出土した貝殻はハマグリ、ハイガイ、イシダタミ、マガキなど23種類。

 このうちハマグリが50%、マガキ、ハイガイがそれぞれ10%。ところが、これらの貝殻の大きさが問題でした。

 ハマグリの場合、殻長が9㌢前後のものが多く、小さくても5㌢前後。ハイガイ、マガキも大粒ぞろいです。

 しかも、前期から晩期まで各時期を通じて、大型の貝殻がそろっています。

 出土する貝の分析した研究者は、「まことにけっこうなお食事だ」と表現しています。

いちばん大量に生産され、採りやすかったと考えられるアサリがほとんど含まれていないのです。

 日笠山縄文人はマガキ、ハマグリ、さらには珍味の別称を持つハイガイなどを選んで採り、貝類に関しては私たちの手の届かないようなぜいたくをしていたようです。(no2726)

 *『兵庫探検(歴史風土編)』(神戸新聞社)参照

 *写真:日笠山貝塚跡

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高砂市を歩く(149) なんなるの宮

2015-03-10 08:05:48 |  ・高砂市曽根・北浜町

   なんなるの宮

 前号「高砂市を歩く(148)」で「藤の井」を紹介しました。

 先日、藤の井を訪ねた日は、春の陽気のような日で、写真を撮った後、西岸寺の横の坂道を散策しました。

 坂の頂上までは、春の息吹がいっぱいでした。

 とちゅうに大歳神社があります。

 その入口に「なんなるの宮」と刻んだ石碑がありました。

 「なんなる」とは、何とも不思議な名前です。

 石碑の裏に、次のような説明があります。(少し文体を変えています)

    なんなる?

 陰暦の正月3日に、前の年に生まれた男の子全員をこの神社に集め、お参りして指で鼻をつまみ、泣かせて帰る風習が、古くから西浜村の大切な伝統行事「なんなる」として、こんにちまで受け継がれています。

 「なんなる」とは、神道の一派の鳴神神道からでた言葉で「なるかみ」が「なんなる」となったと考えられています。

 神を畏れ、神を敬う行為で、日本全国でも希なことだといわれています。

        昭和60年10月

                西浜町一同

 地域を散策していると、時々おもしろい話題を見つけます。

 この「なんなる」の行事もその一つで、紹介しておきたい話題です。

 来年の旧正月の3日には、ぜひ来てみたい。

 (*14日・土、西浜の方から、お電話をいただきました。「なんなる」の行事は、現在では新暦の1月3日に行われているそうです。ご招待をいただきました。ありがとうございました)

 楽しみが、また一つ増えました。(no2725)

 *写真:なんなるの宮(高砂市北浜町西浜)

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高砂市を歩く(148) 藤の井

2015-03-09 07:38:30 |  ・高砂市曽根・北浜町

  ちょっと復習(梅ノ井)

 「高砂を歩く(139)で、伊保町梅井の「梅ノ井」の伝承を紹介しました。

 ・・・・菅原道真が太宰府に流される途中、ここ伊保港に立ち寄られ、水をお求めになりました。

 里人は、塩水のためお断りしましたが、それでも欲しいといわれるので差し上げました。

 道真は、里人の難儀を悟り、梅の小枝を地上に立て井戸を掘ると、たちまちに真水が湧きだした。以来、この井戸の水はどんな旱魃の時でも枯れることなく、豊かな真水がわき出しました・・・

 しかし、梅の井では、期待は裏切られました。

 町の名称にもなっているのですが、梅の井は寂しい場所に移転され、仕方なしに保存されているような井戸になっていました。

   藤の井

 北浜町西浜の西岸寺横の上り坂に沿って少し奥まったところにある石造りの「藤の井」を訪ねました。

 現在、「藤の井」は使われていないためか、水は少しにごっていましたが、ひも付きのバケツさえあれば、今でも汲み上げられる状態の井戸でした。

 藤の井が現役の頃、ここに集まった人々の声が聞こえてきそうです。

 ここにも伝承があります。

 「塩分を含む井戸水に里人は悩んでいました。ある時、疲れた貴人を船に乗せてあげました。その貴人は、姿を変えた八幡大神で、お礼にと村人に清水のわく井戸を与えました・・・」という伝承です。

 西岸寺の塀に沿った坂道は「藤井坂」で、姫路・的形への道となっています。

 頂上まで歩いてみました。

 頂上の手前に神社があり、道端の草の匂いは、もう春でした。(no2724)

 *写真:藤の井

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高砂市を歩く(147) のじ菊ロード

2015-03-08 08:39:08 |  ・高砂市曽根・北浜町

  のじ菊ロード

 先日、高砂市北浜地区の散策をしました。

 春本番のような暖かい日で、コンビニでお茶を買って外に出ると、道を隔てて標柱がありました。

 新聞の記事(3月2日の神戸新聞の朝刊・東播版)にあった道路「のじ菊ロード」の説明です。ほかほかの話題です。紹介しておきます。

 *以下は神戸新聞の記事の転載です。(新聞では、「じょうとんばどおり」の写真で、記事の題は少し変えています)

  四つの市道に愛称

 道路に愛着を持ってもらおうと、兵庫県高砂市は四つの市道に愛称を付け、標識柱を設置した。地元の連合自治会に応募を呼び掛けたところ、4地区が申し込んだ。いずれも地域の特徴を表した愛称で、市は「親しみを持ってもらい、市外の人にも地域を知ってもらう手がかりになれば」と話している。

 愛称が付いた市道は、じょうとんばどおり(高砂地区・本町幹線道路)▽時光寺前通り(中筋地区・南池時光寺準幹線道路)▽鹿島サンロード(阿弥陀地区・鹿島幹線道路)▽のじ菊ロード(北浜地区・北脇牛谷準幹線道路)。

 「じょうとんばどおり」は高砂神社に由来する道で、「時光寺前通り」は寺の参道にあたる。「鹿島サンロード」は高御位山や太陽を示す“サン”の言葉を入れ、「のじ菊ロード」は道路周辺の山にノジギクが自生していることを表した。各市道の起点と終点に、竜山石製の標識柱(高さ120センチ)を設置している。

 同市でほかに愛称のある市道には、阿弥陀地区の「青い鳥・童謡どおり」や神爪地区の「蟠桃どおり」がある。(小林隆宏)(no2723)

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高砂市を歩く(146) 北浜村は高砂市と合併!

2015-03-07 07:46:24 |  ・高砂市曽根・北浜町

   北浜村は高砂市との合併!

 昭和31年(1956)年9月、大塩町と北浜村の合併委員は、高砂市合併委員との交渉を繰り返す一方で、県への陳情も行いました。

 そして、北浜村は同月19日、高砂市との無条件合併を決定しました。

 大塩町は、21日上野董茨町長が高砂市を訪ね、市議会での合併議決を求めました。

 しかし、当時高砂市議会は、米田町との合併を第一義とし、大塩町等との合併議決は「時期尚早」と考える向きもありました。

 そのため、高砂市と大塩ブロック(大塩町・的形村・北浜村)との話し合いは、まとまりませんでした。

   大塩ブロックは分裂!

 しかし、10月に入り高砂市合併委員会および同市議会協議会は満場一致で大塩ブロックの高砂市への合併の方針を決定しましたが、8日には的形村が合併協議会からいち早く脱退しました。

 さらに、11月に入ると、大塩町には強力な財政力を持つ姫路市からの働きかけが強まり、同月27日、大塩町議会は姫路市との合併に関する姫路との合併委員会を設置しまし、昭和32年(1957)1月7日の大塩町議会は、「姫路合併7、高砂合併5、退席3」の表決で姫路市合併に方向を決めました。

 そんな情勢の中でしたが、北浜村は、昭和31年12月月8日、高砂市と北浜村との間で合併仮調印式を行いました。

 県町村合併促進審議会は、「昭和32年1月11日に開催され、大塩町の意志が7、5、3の比率になっている現段階において、その西部に隣接する北浜村の高砂市合併の熱意に応へ、かつ産業、経済、交通等類似する大塩町が高砂市と合併することはまったく合理的であること、また、水道が高砂市より通じていることなど、的形、北浜、大塩の三町村は、大塩ブロックが一つにまとまって高砂市との合併をめざすのが当然」という方針を出しました。

 高砂市と北浜村の合併は同月14日の両議会で議決され、同年3月10日、高砂市編入されることになりました。

 ところが、大塩町は県の勧告を受けたのですが意見が分かれ、1月12日、姫路市に対し正式に合併を申し入れました。

 北浜村と大塩町は、高砂市と姫路市に分かれて合併となりました。(no2722)

 *『高砂市史(第三巻・通史編近現代)』参照

 *写真:北浜村合併仮調印式(『高砂市史(第三巻・通史編近現代)』より)

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高砂市を歩く(145) 北浜村誕生

2015-03-06 09:25:18 |  ・高砂市曽根・北浜町

 伊保町の散策の途中です。伊保町中筋・今市・中島をま訪ねていませんが、しばらく北浜町・曽根町の気ままな散策にでかけます。

   北浜村誕生


 北浜地区は住吉「餘部郷」に属していましたが、荘園制の発達するにしたがい「大塩荘」に属しました。

 明治22年4月1日の村制施行にあたり西浜村、北脇村、牛谷村の三ケ村が合併して一村となりました。

 その時、「北脇村」の「」と「西浜村」の「」の一字ずつをとつて「北浜村」と名付けました。

  北浜村高砂市に合併

        (昭和27年3月10日)   

 なお、昭和29年(1954)7月1日、高砂町・荒井町・曽根町・伊保町が合併し、高砂市が誕生した。

 そして、2年後の昭和31年(1956)9月30日、米田町(船頭・平津を除く)、阿弥陀村は高砂市に合併し現在にいたっています。

 北浜村が高砂市に合併したのは、昭和32年(1957)3月10日のことでした。

なお、大塩町を含めて、北浜村の高砂市への合併の顛末は次号で取り上げます。

 ここに明治38年の北浜村の人口調査がありますので掲載しておきます。

 <北浜村(明治38年12月)>

 男:927人 女:八百七拾人 合計:1797人 戸数:322軒(no2721 )

 *図(北浜村)は、『兵庫県市町村合併史・上』(兵庫県総務部地方課)(昭和37)より

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