曽根地区は、古くは「大国郷」に属していましたが、鎌倉時代の荘園制の発達により、大国郷が伊保・雁南・平津の3荘に発展し、曽根は、そのうちの「伊保荘」に含まれました。
「曽根」の名称は「磯根」か?
村名の起源は、はっきりとしていません。
もと天川の西岸の日笠山の麓に居住していた曾根が天川の大洪水により家屋が流失したため、東岸の本庄に移住したので、次第に本庄の呼称から曾根の呼称に変ったといわれています。
曾根の語源は、海辺にあったことから磯根、または石根の転化したものと想像されています。
江戸時代の曽根村一村で、明治時代の曽根村へ
明治22年の村制施行にあたり、曽根村一村が従来の名称のままで「曾根村」が誕生し、後大正2年4月1日町制を施行しました。
その後、昭和29年(1954)7月1日、高砂町・荒井町・曽根町・伊保町が合併し、高砂市が誕生し、2年後の昭和31年(1956)9月30日、米田町(船頭・平津を除く)、阿弥陀村は高砂市に合併し、翌年の3月10日北浜村が、高砂市に合併し、現在にいたっています。
なお、ここに明治38年の曽根村の人口調査がありますので掲載しておきます。
<曽根村(明治38年12月)>
男:1739人 女:1681人 合計:3420人 戸数:609軒
*図(曽根村)は、『兵庫県市町村合併史・上』(兵庫県総務部地方課)(昭和37)からお借りしました。非常にシンプルで江戸時代の曽根村(大字)が、そのまま明治の村制で曽根村になっています。
ところが、江戸時代、曽根村は姫路藩領、鳥取藩領、小田原藩領、そして一ツ橋藩領等と複雑な経緯をたどりました。後日紹介しましょう。(no2739)
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