以下の文章は、昭和55年12月日の神戸新聞に掲載された「天の磐船」を参照させていただきました。(一部書き変えています)
天の磐船
「天の磐船(あまのいわふね)」(写真)は、阿弥陀町伊保山の南面、頂上から20㍍の地点で、半ば埋もれていました。
この大きな石棺の「縄掛け」は円盤状です。
天の磐船は、ひっくり返っていると、ちょうど船のように見えたのでしょう。
加古川下流城の家形石棺の中で「縄掛け」が円盤状のものは珍しく、これが唯一の例です。
古い形式の長持ち形石棺の伝硫を受け継いでいるようです。
大きさは、加古川下流で一番大きく、全長3㍍、幅1.3㍍ 、厚さ60㌢、推定重量は4㌧もあるといいます。
近辺で、この石棺にふさわしい大きな古墳は知られていません。古墳は、完全に破壊されてしまったのかもしれません。
石棺のあった伊保山は有名な「竜山石」を産する竜山のとなりにあり、伊保山も山全体が「竜山石」でできています。
ここで、多くの石棺が古墳時代(3~6世紀中ごろ)加工されていました。
天の磐船について、加古川史学会の田中幸夫氏は、次のように考えておられます。
「・・・頂上付近には石棺を加工するのに適した岩が露出していた。そこで石工が、加工して石棺を完成させた。しかし、石棺を移動させようとした時に、事件が起きた。戦争がおきたのかもしれない。神の祟りがあったのかもしれない。なによりも、急斜面のために断念したのかもしれない。・・・・」
いずれにしても、この石棺は山頂付近で加工されたと考えられます。
平地で加工して標高100㍍の高さまで運搬したとは考えられません。
近年、伊保山は、石材を採るため山が削られて、「磐船」の際までガケが接近してきました。
危険な状態になったので、昭和38年に山から降ろされ、現在は、高砂市教膏センターの庭に置かいます。 (加古川史学会・田中幸男)(no2738)
*『郷土の石彫⑤・田中幸夫』(神戸新聞)参照
*写真:天の磐船(石棺)
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