どーも、ワシです。今回は和歌山県橋本市高野口町小田(こうやぐちちょうおだ)にある紀の川水系の小田頭首工を訪れます。ここは昨日記事にした藤崎頭首工の上流にあり、県道4号沿いにあるうどん屋「かね良」前の道を東へ進んで行くと到着します。
これが紀の川右岸から見た「勇姿」。写真下に見えるのが魚道です。
左岸から見た紀の川の下流方向の景色。魚道が一旦下流側に伸びてから再び上流側へ向かっているのがわかりますね。そのようにしているのは少しでも傾斜を緩やかにするためです。こうすればお魚さんたちがストレスなく川を遡ることができるというわけです。
魚道を上流側から見ると、こんな感じ。
その付近から見た頭首工の様子。
一方、紀の川の上流方向の景色です。これをずーっと遡っていくと下渕頭首工があります。それは未見なので、そのうち訪れてみたいと思います。
頭首工の上流側の右岸には取水設備があり(写真上のブルーのもの)、その取水口から分水した水はここに流れ込みます。訪れた日は、どうやら取水口が閉じていたようで全く水はありませんでした。
…と、まあ、いきなり小田頭首工の様子から出発したわけですが、これらの景色は真っ先に見えるわけではありません。当該の頭首工へ行くにはそれを管理している小田井土地改良区の敷地に入る必要があります。これが小田井土地改良区の建物。
小田頭首工の取水口から分水した水は「小田井用水路」を通って流域の農地へ向かうのですが、この「小田井用水路」は2017年10月に世界かんがい施設遺産に登録されたそうです。
敷地内には小田井用水と小田頭首工についての詳しい案内板があります。
小田井用水は紀の川右岸の水田を灌漑している用水路のことで、この地は昔から常に水不足に悩まされていたそうな。そこで江戸時代に紀州藩第2代藩主である徳川光貞(1627-1705)は財政再建の打開策として新田開発を企てます。そして用水路の開発は1699年の藤崎用水の開削で幕を開けました。
その後1707年、光貞の四男で同藩第5代藩主だった徳川吉宗(1684-1751)の命を受けて大畑才蔵がこの小田井用水を開削。この用水は等高線に沿って開削されたので用水路よりも高い場所にある水田へはどうしたら水を行き渡らせることができるのかが課題でした。そこで考案されたのが水路橋(渡井:とい)やサイフォン(伏越:ふせご)。これらを設置することで全ての水田に水を供給することを可能にしたのだそうです。その後何度も改修工事が行なわれ、2006年2月には農林水産省による疎水百選のひとつに選定されています。疎水とは人工的に作られた農業用水路という意味。
もちろん、紀の川から水を引き入れるためには川を堰き止める必要がありました。しかし江戸時代から明治時代までは現代のような工法はなく、石や木材を組み合わせて堰き止める軟弱な堰堤だったため紀の川が増水するたびに損壊し、その都度築造されていました。そして1926年にようやくコンクリート製の堰堤が作られるも、1953年9月25日に発生した洪水により流失。現在の基礎となる堰堤は1956年3月に国営紀の川災害復旧事業により築造されたそうです。おそらくそれまでの堰堤の名称は「小田井堰」で、この時から名称が小田頭首工になったと思われます。その後、何度も細かな改修工事が行われて現在に至っているそうな。
案内板にはさらに江戸時代の農業土木技術者である大畑才蔵(おおはたさいぞう:1642-1720)の測量法についての説明が記されています。
その近くには「小田井本堰改築記念」と刻まれた石碑。大正15年(1926年)6月竣成とあるので、上に記したコンクリート製の堰堤が築造された時のものと思われます。
1953年の洪水では上に書いた通り小田井と、七郷井(1699年にはすでにあった)が流失したため、現在の小田頭首工は事実上これらの統合井堰としての役割を担っています。さらに七郷井堰の下流にあった三谷井(1771年開削)は昭和初期まで紀の川から取水し、その後ポンプ取水方式となりますが、1959年の伊勢湾台風でポンプが使用不能となったことから現在では小田井用水から分水されています(参考)。したがって小田頭首工は3つの井堰を統合したものということになりますね。
紀州藩主、頼宣と光貞の父子はどちらも財政再建のための水利事業に尽力しました。頼宣は櫻池を、そして光貞による藤崎用水の開削に始まり、吉宗の下での大畑才蔵による小田井用水開発…。それがこんにちの紀の川流域の農業の基盤となっているのは間違いのないところでしょう。
これが紀の川右岸から見た「勇姿」。写真下に見えるのが魚道です。
左岸から見た紀の川の下流方向の景色。魚道が一旦下流側に伸びてから再び上流側へ向かっているのがわかりますね。そのようにしているのは少しでも傾斜を緩やかにするためです。こうすればお魚さんたちがストレスなく川を遡ることができるというわけです。
魚道を上流側から見ると、こんな感じ。
その付近から見た頭首工の様子。
一方、紀の川の上流方向の景色です。これをずーっと遡っていくと下渕頭首工があります。それは未見なので、そのうち訪れてみたいと思います。
頭首工の上流側の右岸には取水設備があり(写真上のブルーのもの)、その取水口から分水した水はここに流れ込みます。訪れた日は、どうやら取水口が閉じていたようで全く水はありませんでした。
…と、まあ、いきなり小田頭首工の様子から出発したわけですが、これらの景色は真っ先に見えるわけではありません。当該の頭首工へ行くにはそれを管理している小田井土地改良区の敷地に入る必要があります。これが小田井土地改良区の建物。
小田頭首工の取水口から分水した水は「小田井用水路」を通って流域の農地へ向かうのですが、この「小田井用水路」は2017年10月に世界かんがい施設遺産に登録されたそうです。
敷地内には小田井用水と小田頭首工についての詳しい案内板があります。
小田井用水は紀の川右岸の水田を灌漑している用水路のことで、この地は昔から常に水不足に悩まされていたそうな。そこで江戸時代に紀州藩第2代藩主である徳川光貞(1627-1705)は財政再建の打開策として新田開発を企てます。そして用水路の開発は1699年の藤崎用水の開削で幕を開けました。
その後1707年、光貞の四男で同藩第5代藩主だった徳川吉宗(1684-1751)の命を受けて大畑才蔵がこの小田井用水を開削。この用水は等高線に沿って開削されたので用水路よりも高い場所にある水田へはどうしたら水を行き渡らせることができるのかが課題でした。そこで考案されたのが水路橋(渡井:とい)やサイフォン(伏越:ふせご)。これらを設置することで全ての水田に水を供給することを可能にしたのだそうです。その後何度も改修工事が行なわれ、2006年2月には農林水産省による疎水百選のひとつに選定されています。疎水とは人工的に作られた農業用水路という意味。
もちろん、紀の川から水を引き入れるためには川を堰き止める必要がありました。しかし江戸時代から明治時代までは現代のような工法はなく、石や木材を組み合わせて堰き止める軟弱な堰堤だったため紀の川が増水するたびに損壊し、その都度築造されていました。そして1926年にようやくコンクリート製の堰堤が作られるも、1953年9月25日に発生した洪水により流失。現在の基礎となる堰堤は1956年3月に国営紀の川災害復旧事業により築造されたそうです。おそらくそれまでの堰堤の名称は「小田井堰」で、この時から名称が小田頭首工になったと思われます。その後、何度も細かな改修工事が行われて現在に至っているそうな。
案内板にはさらに江戸時代の農業土木技術者である大畑才蔵(おおはたさいぞう:1642-1720)の測量法についての説明が記されています。
その近くには「小田井本堰改築記念」と刻まれた石碑。大正15年(1926年)6月竣成とあるので、上に記したコンクリート製の堰堤が築造された時のものと思われます。
1953年の洪水では上に書いた通り小田井と、七郷井(1699年にはすでにあった)が流失したため、現在の小田頭首工は事実上これらの統合井堰としての役割を担っています。さらに七郷井堰の下流にあった三谷井(1771年開削)は昭和初期まで紀の川から取水し、その後ポンプ取水方式となりますが、1959年の伊勢湾台風でポンプが使用不能となったことから現在では小田井用水から分水されています(参考)。したがって小田頭首工は3つの井堰を統合したものということになりますね。
紀州藩主、頼宣と光貞の父子はどちらも財政再建のための水利事業に尽力しました。頼宣は櫻池を、そして光貞による藤崎用水の開削に始まり、吉宗の下での大畑才蔵による小田井用水開発…。それがこんにちの紀の川流域の農業の基盤となっているのは間違いのないところでしょう。