ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ヴンダバーおぢさん

2005-10-17 03:38:39 | 音楽あれこれ
ふと思った。そういえば「ヴンダバーおぢさん」はどうしているのか、と。なんのことやらさっぱりわからない人のために彼について説明しておこう。このおぢさんはワシが知る限り90年代に「活躍」していた人物である。もちろん面識はないからどんな風貌なのかも知らない。ただ、当時ドイツ系のアーティストの演奏会では必ずといってよいほど「登場」されていた。

うーん、まどろっこしい説明だな。もとい。要するにこのおぢさん、演奏が終わると通常なら「ブラヴォー!」と言う代わりに「ヴンダバー!」と叫んでいたのだ。そこからこの人を通称「ヴンダバーおぢさん」と呼ぶようになったのである。もちろんそう呼んだのは音楽マネジメント関係の人々だけで、一般のお客さんは知らなかったと思う。ただ「うるせーな、このジジイ」ぐらいにしか思っていなかっただろう。

なぜこの人が「ヴンダバー!」と叫んでいたのか。マネジメント関係者によれば次のような理由だったそうな。それまではこの人も一般の人と同じように「ブラヴォー!」と叫んでいたらしい。ところがある時、おぢさん、ドイツへ旅行した際、ついでだからと演奏会に顔を出したそうな。すると会場では演奏が終わるたび聴衆が感極まって「ヴンダバー!ヴンダバー!」と叫んでいるのを目にする。おぢさんは思った。「そうか、ドイツではブラヴォー!より『ヴンダバー!』なのか」と。

言うまでもないことだが、ヴンダバー(wunderbar)とはドイツ語で「驚くべき、素晴らしい」という意。イタリア語のブラヴォー(bravo)が「優れた、うまい」の意味だから、当地のドイツ人たちはブラヴォーの代わりに母国語で「いいぞー!」と言っていたに過ぎない。日本なら、さしずめ「よっ、大統領!」ってところか…。いや、こんなこと言う人はもういないか(苦笑)

そんなわけで、すっかり「ヴンダバー」を気に入ってしまったおぢさん。帰国してから演奏会に行くたび「ヴンダバー!ヴンダバー!」と、バカの一つ覚えのようにお題目を唱え始める。だが、すべての演奏会でそう叫ばなかったところにおぢさんの奥ゆかしさがあった。そう、お題目を唱えるのは大概ドイツ人の演奏家に対してだったのである。憎めないキャラではないか!

最初ワシはそうした事情を知らなかった。そのため野太く吠えるような低音で絞り出される「ヴンダバァァァァァァァ!」を聞くたび、あぁ、今日もまた熱心なドイツ人が聴きに来ているなくらいにしか思っていなかった。ところが、関係者がある時「今日も『ヴンダバーおぢさん』が来てましたね」と話してくれたことから事実が判明。

「な、なんですか?その『ヴンダバーおぢさん』って?」
「ほら、かくかくしかじかの人のことですよ」
「えっ、あれってドイツ人じゃないんですか?」
「いやーっ、あの人はどっから見ても日本人でしょ(笑)」
「なんだ、そういうことだったんですねえ(苦笑)」

思い込みとは恐ろしいものである。それにしても、おぢさん、最近「登場」しないなあ。どなたか消息を知ってる方います?(笑)
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本日より独立展

2005-10-16 04:48:34 | 脳みその日常
本日より31日まで上野の東京都美術館において、独立美術協会主催による「第73回独立展」が開催される。毎年この時期に行なわれるこの展覧会、いろいろなベクトルの方向をもつ画家たちの作品が出展されており、見る者を飽きさせない。もうその技法はさすがに時代遅れだよな?というものから、何だろう、これは…というものまでバラエティに富んでいる。さて、今年はどんな作品が展示されるのだろう。

毎回行きたいとは思っているのだが、こちらも今は繁忙期なのでなかなか時間がとれない。2週間の間に何とか時間を作れたらいいなとは思っている。みなさんもいかがですか?
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慣れないことをして自爆

2005-10-15 13:02:03 | 脳みその日常
午前3時。あー、脳みそが働かない。たかだか500字の原稿の書き出しが浮かばない。いつもより早いが寝て仕切り直しするか…。そう思ったのが間違いのもとだった。

いいのか悪いのか知らないが、ワシの生活パターンは自分の欲求に従っている。眠くなったら寝るし、腹が減ったら食う。だから眠くなければ寝ないし、腹が減らなければ食わない。いわゆる生活リズムなどとは無縁の生活をしているといってよい。体内時計なんてないに等しい。もう狂いっぱなしである。サラリーマンになれなかったのは、きっとそのせいだな(苦笑)

それはともかく。横になったはいいが、まったく寝つけない。いつもなら横になった瞬間に寝てしまうので、寝付きの悪い人の苦しみがわかった気がする。いやー、眠れないってのがこれほどツラいものとはねえ…。

結局、それから午前8時すぎまでフトンの中で泳いでいた。長年染み付いた自分の生活パターンって、そうそう変えられるもんじゃないな。で、書き出しは思いついたのかって? い、いや…それがまだ…。

だめだ、完全に自爆である。
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ロマン派の表現について

2005-10-14 06:17:01 | 音楽あれこれ
「情感たっぷりに演奏すればロマン派の表現なのだ」

このように勘違いしている演奏家があまりにも多くてウンザリする。確かにロマン派の音楽にはそうした性質がないわけじゃない。だからルバートを必要以上にかけてみたり、何だか知らないが甘ったるく演奏するという思考になるのか?

いや、それは表面的なモノマネにすぎない。というより、あまりに情感がデフォルメされすぎているので、聴いていて気持ちが悪くなったりすることもある。それ、ちょっと砂糖の入れ過ぎじゃないのか?…と。

ところで、彼らはハイネ(1797-1856)やリュッケルト(1788-1866)、それにメーリケ(1804-75)などの詩人の作品を実際に味わったことがあるのだろうか。もっと具体例を出そう。例えば、彼らはハイネの『詩人の恋』を読んだことがあるのだろうか。この作品では詩人の揺れ動く心のありようが巧みに描かれている。現代の我々からすればちょっと女々しいと思える表現もなくはない。

だからといってそれが甘ったるい感傷趣味だけのものかというと、そうとはいえない。そこはかとない叙情にあふれ、現代の我々が忘れている慎み深さや奥ゆかしさといった繊細な情感の機微がそこには表現されている。ロマン主義文学に共通するそうした叙情はもちろん音楽にも影響を与えた。

とすれば、少なくとも前期ロマン派の音楽作品で過剰な激甘表現をするのは明らかに的外れであろう。ましてや鍵盤を無神経にぶっ叩いたり、異常なほどヒステリックに弦をかき鳴らすなんてのはどう考えてもロマン派の様式とは合致しない。そんな演奏を聴くと「この人、アタマ、大丈夫か?」と思ってしまう。

もっとも、それらの著作を読んだ上で、それでも過度に甘ったるい演奏表現をするのならばそれは演奏家の解釈であり、それ以上こちらが立ち入ることではない。だが演奏を聴く限り、どうもそうしたプロセスなしに演奏しているのではないかと感じることがしばしばある。

ロマン派の作品というのは、ある意味で演奏するのは簡単だ。それは奏法は別にして、表現の規範がないようなものだからである。どんなにカッチリ弾いても、激甘で弾いてもそれはロマン派の作品として大抵許される。不思議だ。

表現の許容範囲が広いといえば聞こえはいい。だが、実はそこにこそ大きな表現上の問題、すなわち見落とされている問題があるのではないか。ロマン派の時代に流れていた叙情というものを…。その叙情をイメージできず、ただ感情のおもむくままに弾いたってそんな演奏にロマンティシズムが感じられないのは当然なのである。

そう考えると、現代の我々がロマン派音楽を適切に表現するためには単なる感覚や思い込みでは足りないということになる。むしろ当時の文化全体のことをよく学ばなければロマン派の姿は見えてこない。形式という規範が曖昧な時代であっただけに、ロマン派を表現することは、矛盾するようだが、かえって理知的でなければならないのかもしれない。
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付き合いの法則

2005-10-13 04:02:04 | 脳みその日常
出会いがあれば別れもある。今まで多くの人と出会い、別れてきたが、そこには興味深い法則がある。法則といったって、大したものじゃない。付き合いの仕方にはパターンがあるということ。

そもそも出会いというのはそれぞれの人間のもつ波動が、ある時、何らかの原因で同調・共振することで起きるとワシは考えている。そして同調・共振の振れ幅が大きければ大きいほど両者は急激に密接な関係になる。

しかし熱烈な恋が冷めやすいのと同じく、そうした関係は残念ながら長くは続かない。その理由はわからない。同調・共振の振れ幅が急激に弱まるからなのかもしれない。そうなると、親密な関係は突然疎遠になる。ケンカ別れしたわけでもないのに互いに離れてゆく。なんなのだろう。これは何も恋愛だけに留まらない。仕事上の出会いを含め、すべての人間関係に言えること。

その一方で、長く続く関係もある。世の中ではそれを「腐れ縁」という。この関係も確かに相互に同調・共振しているのだろうが、互いに「のめり込む」ような振れ幅ではない。だからその反動が少ないのか、関係も長続きするようだ。

ワシには年に一度会うか会わないかぐらいの付き合いの奴がいるが、そいつとの付き合いはもう30年近くなる。どちらからとはなしに「おう、たまには会って話でもするか?」といった関係だ。

だからといって、互いのことをテキトーに考えているわけではない。常に心の中では相手のことを気遣っている。ただ、頻繁に会わないだけ。互いにそれでよいと思っているから関係も続くのかもしれない。

そうしてみると、人間関係というのはつくづく不思議であり、面白いなと思う。
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どうだったのかな

2005-10-12 05:20:47 | 脳みその日常
先週のはじめ、7年ぶりぐらいに古楽系の雑誌から取材の依頼が来た。それによれば10月8日から10日まで開催される「栃木[蔵の街]音楽祭」をリポートして欲しい、とのこと。以前この雑誌で2回ほどこの音楽祭のことは書いたので勝手はわかっている。その「経験」もあって担当者のSさんから電話が来たのだ。

だがそれには条件があった。3日間栃木にいなければならないのである。この音楽祭ではいろいろな演奏が聴けるので仕事であっても楽しい。しかし9日には都内の演奏会に仕事で行くことがすでに決まっていた。そうなると取材の仕事はできない。

「いやー、真ん中の日に仕事が入ってるんですよ」
「あらー、何とかなりませんか?」
「うーん、行きたいのはヤマヤマなんですけどね」
「いいホテルもすでに予約済みなんですよ」
「いや、そういう問題じゃなくて…」
「何年もあなたにお会いしていないから、会いたいわー(笑)」
「またまたぁ、誘惑しようったって、そうはいきませんよ(笑)」

ま、そんなバカな会話をしていたが、実際問題として無理なので今回はキャンセルさせてもらった。

ただ、話によるとこの音楽祭も、プレ音楽祭を含めもう18回ぐらいになる。ところが、最初の頃に比べると内容もパッとせず、今はジリ貧状態なのだとか。ワシがかつて取材した頃はまだ活気があり、本当に面白かった。そこで古楽系の演奏家と何人も知り合い、今でも交流は続いている。彼らとは同地で酒を酌み交わし色々な話をしたものだ。亡くなられたW先生から古楽器について貴重なお話を聞いたのもここだった。

しかし、近年はどうもそういう雰囲気ではないらしい。どこの音楽祭も回数を重ねるにつれてショボくなる傾向があるという。まあそうだよな。最初は珍しがってお客も来るけれど、内容がマンネリしてくれば飽きられるものだからね。だから音楽祭を続けるというのは大変なことなのだ。

果たして今年はどうだったのだろうか。
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じわじわと…

2005-10-11 17:34:14 | 脳みその日常
ワシの仕事には資料が欠かせない。音資料と文字資料である。時には映像資料が必要な場合もあるが、仕事の比率からしたらまだそれほどではない。

悩みの種はそれらの資料が次第に増えてゆくこと。捨てたり売ったりできるものなら処分するのだが、なかなかそういうわけにはいかない。すると、知らないうちにコイツらがスペースを占拠している。

今年になってから一度「改革」を試み、その時にはなかなかうまい収納ができた…と思った。しかし、ここへきて再び収納を見直さなければならなくなっている。もうね、ジャングル状態よ。もっとも、猛獣に食われるような危険はないけれど。

そろそろ引越かなあ。そう言い続けて何年になるんだろうか。本気で考えなければならんようになってきたのは事実だ。ただ、先立つものがないからねえ。仕事も減ってるし。

思案橋である。←このネタがわかる人は中年以上だろうな(苦笑)
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無駄なお世話

2005-10-10 16:17:11 | 脳みその日常
「40歳以上は全員健診 健保・自治体に義務化へ」(参考記事)

国家が国民の健康管理のために制度を作ることは大切だとは思う。しかし健康診断を受けろ、義務だぞ!といった上からの押しつけはまったくもって大きなお世話である。そもそも健康な人もいれば、病弱な人もいる。個体差があるのだ。にもかからわず国民すべてを一律に捉えようとするのはあまりに事務的すぎないか?

幸いなことにワシはこの20年以上病気らしい病気をしたことがない。風邪だって、めったにひかない。その一方で、常に病弱で病院通いをしている人もいる。本当に気の毒だと思う。単に医療費だけを比べてもワシとその人たちではモノ凄い違いだろう。

だからといってワシは国民健康保険に文句があるわけじゃない。これこそは義務なのだから、ちゃんと支払っている。国家の保険制度を維持させるために払うのは当然だからだ。病弱な人たちのためになるのであれば払うのはちっともやぶさかではない。

でも、健康診断を受けるか否かは別問題ではないか?そんなのは体調に不安のある人が確認のために受けたければ受ければいいこと。受けたいと思わない人にまで「受けろ!これは義務だ!」というのはまったくもって大きなお世話である。

仮に受診したところで、テキトーに検査されるに決まってるだろうし。たまたま受診したことで生活習慣病の可能性が判明したとしても、それからどうするかは受診した本人が決めること。受診を義務化したからって国民の健康の割合が高くなるとでも本気で思ってるのかね。

そもそもワシは医学は信じているが、医術は信じていない。医者なんて所詮は他人である。どこまでこちらのことを親身になって考えてくれるんだ?患者なんてゴマンと来院するんだから、ひとりの患者に親身になるなんて時間的に不可能。だからある意味で「やっつけの医療」しかできない。医者だって生身の人間である。こちらがそこまで要求するのも気の毒だ。ならば、ワシなんかよりも、もっと症状の重い患者を時間をかけてみてほしいと思ってしまう。

こんなことを言うと「アンタは今、健康だからそう思うのさ」という人もいるだろう。そうかもしれない。でも、ワシは自分が健康であることは自慢するつもりもないし、日々ありがたいと感謝している。むしろ、健康なワシに税金を使う必要はないと言いたいだけなのだ。もっと苦しんでいる人たちに貴重な税金を有効に使って欲しいと願っているのである。

いずれ、ワシも床に伏せる時が来るだろう。でもそれこそ無駄な延命治療なんてしてもらうつもりはない。そんな治療を受けたところでそれから長生きしてもせいぜい十数年だろう。ワシにとってそれは大した意味を持たない。すでに「生への執着」はないし「死の恐怖」もないから…。

ま、そんなことはどうでもよい。冒頭の記事で一番腹が立ったのは、結局厚労省が考えているのはカネだということ。国民の健康を思ってるわけじゃない。表向きは国民のためと言うかもしれないが、実は違う。なぜなら、

「厚労省は健診強化などの生活習慣病対策で、25年度の国民医療費を約2.8兆円削減できると試算。」

無駄なカネを削ることはいいことだよ。だけどおかしな検診の義務なんてことを言うより、他省庁の、もっと意味のない無駄遣いを追及し、そのカネを奪ってきて医療費の軽減とかにまわしたらどうだね。ったく、役人にはそういう柔軟な発想がないから困るよな。

ケアというのは一律である必要はないのだ。ケースに応じたケアが受けられる制度こそ真の意味での「平等」なのではないのか?病気の種類や症状によってかかる費用が違って来るのは当然の話。ならば苦しんでいる人にこそ多額の税金を使ってやるのが心ある対応ではないのか?

役人はカネ勘定ばかりしてないで、もっと国民のことを考えろよ。
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何てことない日曜

2005-10-09 18:58:19 | 脳みその日常
大してネタがないので、つまらん日常の出来事を。

今朝がた、近くの部屋から何やらドカンドカンと音が聞こえた。まだ夜明け前である。よーく耳を澄ませてみると男の暴れる声がした。しかしその音が八つ当たりでどこかを殴っているのか、誰かを殴ってその人が壁にぶち当たっているのかは定かではない。とにかく脳みそのなさそうな男がわめいているのだけが聞こえた。まさか、そいつ、クスリでもやってるんじゃないだろうな…。

ところで、ウチにはまだ国勢調査の調査員が来ない。何やってんだろう。世の中ではいろいろ問題が起きているようだが。650億円もの税金をかけてやるらしいが、どーせロクな結果は出ないだろう。そんなことを思っていたら、昼頃ドアをノックする音が…。いささかアヤしいおっさんが立っている。聞けば調査員だという。

「国勢調査のご協力をお願いに参りました」
「アンタ、今頃こんなもの持ってきてどういうつもりだい?」
「いえ、この地域の担当者が病気になったらしくて、私が代わりに…」

釈然としないが、まあ身分証を見て偽物ではないことを確認。調査用紙を受け取る。10月末までに郵送すれば良いとのこと。ったく、なんだかいい加減だな。

午後には赤坂のサントリーホールに行く。今日はマチネーだ。詳しくは書かないが、新しい発見があった。正直、聴く前は全く期待していなかったが、大体そういう時に限ってナイスな演奏だったりする。逆に期待して行くとダメだったりするからライヴは面白い。写真は休憩中に撮ったもの。玄関前にずっと展示されている鉢植えのひとつ。これを撮った意味は特にない(苦笑)
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良い刺激

2005-10-08 16:21:57 | 脳みその日常
疲れが累積していたのか身体がだるい。おまけに昨日は中途半端な演奏を聴いたことも手伝って、疲労が倍増。普段は超合金でできているワシの身体も、いささかヘタレ気味。明け方に寝たのだが、気づけば昼過ぎ。ワシにしては恐ろしいほど良く眠った。

精神的に弱っているところへ一通のメールが。後輩のIさんからである。教員採用試験に合格したとのこと。いやー、めでたい、めでたい。誰かのセリフじゃないが「よく頑張った!感動した!」である。

そういえば数日前にもっと後輩のNさんも合格の知らせをよこしたっけ。こちらは大学院に受かったという内容だった。「おかげさまで合格しました」と書いてあったが、ワシは何もしとらんのだが(笑)

いずれにしても彼女たちには輝かしい未来が待っている。ぜひとも頑張って欲しいものだ。このような知らせをもらうと、ヘタっているワシの身体も元気になる。なんだかエネルギーをもらった気がするからだ。

「おーし、オッチャンも頑張るど!」

そんな気分にさせてくれるのだ。本当にありがたく思う。

(昨日の訂正)
距離を間違えてました。正しくは640kmです。どーでもいいことですが。
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ちょっと中距離ドライブ

2005-10-07 05:16:10 | ドライブ関連
思い立つと走ってしまうのである。今回は少し早い時間に出発。といっても夜の7時過ぎであるが。

なんとなく日立あたりまで行ってみようと思いついた。この出発時間だと都内から出るのに時間がかかる。そこで大泉から外環に乗り三郷まで行き、常磐道に入る。当初はストレートで行ってみようと思ったが、高速の運転が飽きたので千代田石岡で下りる。そしてR6に合流し、ひたすら下る。

日立市に入ってしばらく行くと左の山のほうに丸い光の輪が見えた。「なんだ?なんだ?なぜあんな上にあるんだろう。」気になると確認しないわけにいかない。で、輪に吸い寄せられるようにそちらに向かって行った。うーん、未知との遭遇かもしれん。何だかワクワクし始める。

その正体は「かみねレジャーランド」の観覧車だった。サイトの写真を見ると、なるほど総合レジャーランドであり、昼間の観覧車はよくある形をしている。しかし、夜になると観覧車はその輪郭だけに灯りがつく。それをワシは遠くから見たというわけである。右の写真は近づいて下から撮影したもの。やっぱり輪郭だけ光っているのって不気味だよなあ。

何だかなあと思っていたら、その下のほうに「吉田正音楽記念館」があるのを発見! うはっ、知らなかった。吉田正は大正10年に生まれ、平成10年に亡くなった日本を代表する歌謡曲の作曲家。《いつでも夢を》をはじめとして数多くのヒット曲を作ったことで知られる。プロフィールによれば吉田は日立市の出身らしい。それでここに記念館が作られたようである。

寄り道をしてしまったので、先を急ぐ。R6をさらに下り、高萩を過ぎた頃、そろそろ引き返さないとマズい時間になってきた。もうちょっと頑張れば仙台まで行けるのに残念である。お楽しみは次回にとっておこう。

で、R288から郡山方面へ。これは一応国道なのだが、なかなかシビレる峠道だ。そこそこのワインディングが楽しめてワシはゴキゲン。おまけに信号がほとんどないので安心して飛ばせる。もっとも、携帯(FOMA)は圏外で繋がらないので万が一の時には困るのだが…。

郡山の駅前あたりで何かウマイものでも食おうかなと思ったものの、夜中の12時半に開いているのはアヤシイ風俗店ぐらい。黄色いハッピを着た呼び込みのニイさんの姿だけが異様に眩しい。関わりたくないので、いそいそとクルマに乗る。

あとはR4を東京方面へ。それにしても不景気のせいなのか、下道を走る大型トラックが異常に多い。しばらく我慢して大型のケツを見ながら走っていたが、平均時速50~60キロだと東京へ着くのは夜明け頃になりそうなので、途中の矢板インターから東北道に乗って帰宅した。

今回の走行距離は570キロ。そういえば、矢板インターに乗ってすぐの「上河内サービスエリア」で売ってた生クリーム入りのシュークリームはウマかった。食べちゃったので写真はない(笑)

あしからず。
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背中の表情

2005-10-06 17:15:00 | 脳みその日常
面倒な原稿が終わったので、気分転換に戸棚を整理した。すると昔の写真が出てきた。昔といってもセピア色した大昔のものではない。15年ほど前の合宿の写真である。

懐かしい顔ぶれだ。なかにはもう亡くなった先生なども写っている。いろいろな記憶が浮かんで来た。

ふと目に留めた1枚の写真があった。とある通路で2人の先生とワシが歩いているのだ。それを後ろから撮ったものである。

よく「背中に哀愁が漂う」などという表現をするが、この写真を見ると本当に背中には表情があるんだなと気づく。もっとも、この3人の背中に哀愁は漂っていない。その代わり、「お疲れの背中」「楽しそうな背中」「元気な背中」が写っていた。

もちろんそう思うのはワシの主観である。なんとなくそのように見えただけなのかもしれない。でも、やはり背中には何らかの「表情」はある。

困るのは自分の背中がその場で確認できないこと。仮に鏡があったとしても、そこに写っているのはポーズを決めている自分である。何も意識していない無防備な姿を自分で見ることはできない。

この写真がとらえた「表情」は、おそらく3人の真実の姿なのだろうと思う。
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幻の原稿

2005-10-05 19:27:03 | 音楽あれこれ
数日前に、とある演奏会の解説を睡眠時間を削りながら必死で書いた。ところが今日、担当者から連絡が入る。話によると演奏曲目が大幅に変更になったらしい…。

ショックである。というのも、今回の解説の構成はプログラム全体のコンセプトをワシなりに分析して、トータル的に解説したものだったからである。曲目が変更になってしまえば、この原稿は使えないからだ。

うぅぅぅ…、ツイてない。
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休「脳」日

2005-10-04 06:00:58 | 脳みその日常
昨日は、ない脳みそをフル稼働させた。そのため今日は休「脳」日。

またのお越しをお待ちしております(笑)
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お知らせ

2005-10-03 02:51:41 | 脳みその日常
最近、表現することの難しさを感じている。このところ、ここに書いたものに対して様々な反応があった。そりゃ、いろいろな考えの人がいるのだから賛否両論あってもおかしくはない。しかし、ワシの意図したことが読み手に理解されないのは最も残念なことである。

どこから知ったのかわからないが、このブログの読者のなかには音楽家の方々もいるらしい。誰が読んでいるのか、ワシはまったくわからない。さらにワシの正体まで知っている方もおられるようだ。もっとも、このブログは公開しているのだから誰が読んでも構わないのだが。

しかし、一番の誤解はワシがここで書いている演奏会についての文章のようである。それを一部の方々が「問題ではないか」と指摘してこられた。その論拠は要約すれば「こんなところで批評を書いていいのか?」というもの。

ちょっと待って欲しい。ワシがいつ、ここで批評を書くと発言したんだ? そんなことは一度たりとも書いたことはない。あくまでひとりの聴き手として行った演奏会について感じたままを書いているだけのこと。仕事で行った演奏会については一言もここでは触れていない。第一、ここはワシ個人の「便所の落書き」をする場なのだし。

仕事を離れたところで書いている文章に対して、一体なぜ、とやかく言われなければならないのだろうか。さまざまなしがらみとは無縁なこのような場だからこそ、自由に発言してよいのではないのか? ワシがここで匿名にしているのも、そうした理由からだ。

もっとも、当ブログの読者数なんて多くて50人もいない。ワシがここで勝手なことをほざいたところで社会に何か影響でも及ぼすんですかね? ないと思うけどね(苦笑)

ま、そんなこんなで不愉快な気分になったので、今後このブログでは行った演奏会について書かないことにする。個人の「意見」が知らないうちに「批評」と看做されてはかなわんからね。

…というわけで、今後このブログは文字通りワシの脳みそで考えたことだけを記すことになりました。たぶん面白くも何ともないブログになることでしょう。音楽関係者で当ブログにブックマークされている方は読むだけ時間の無駄ですから、とっとと解除していただいて構いません。別に読者が減ったからといってワシが困ることはひとつもありませんからね。もっとも、来るのは自由ですから無理にとは言いませんが。そのへんは各自のご判断にお任せします。こんな駄文でも、読みたい人が読んでくれればいいのですから。

とりあえずは、お知らせまで。
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