ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ロマン派の表現について

2005-10-14 06:17:01 | 音楽あれこれ
「情感たっぷりに演奏すればロマン派の表現なのだ」

このように勘違いしている演奏家があまりにも多くてウンザリする。確かにロマン派の音楽にはそうした性質がないわけじゃない。だからルバートを必要以上にかけてみたり、何だか知らないが甘ったるく演奏するという思考になるのか?

いや、それは表面的なモノマネにすぎない。というより、あまりに情感がデフォルメされすぎているので、聴いていて気持ちが悪くなったりすることもある。それ、ちょっと砂糖の入れ過ぎじゃないのか?…と。

ところで、彼らはハイネ(1797-1856)やリュッケルト(1788-1866)、それにメーリケ(1804-75)などの詩人の作品を実際に味わったことがあるのだろうか。もっと具体例を出そう。例えば、彼らはハイネの『詩人の恋』を読んだことがあるのだろうか。この作品では詩人の揺れ動く心のありようが巧みに描かれている。現代の我々からすればちょっと女々しいと思える表現もなくはない。

だからといってそれが甘ったるい感傷趣味だけのものかというと、そうとはいえない。そこはかとない叙情にあふれ、現代の我々が忘れている慎み深さや奥ゆかしさといった繊細な情感の機微がそこには表現されている。ロマン主義文学に共通するそうした叙情はもちろん音楽にも影響を与えた。

とすれば、少なくとも前期ロマン派の音楽作品で過剰な激甘表現をするのは明らかに的外れであろう。ましてや鍵盤を無神経にぶっ叩いたり、異常なほどヒステリックに弦をかき鳴らすなんてのはどう考えてもロマン派の様式とは合致しない。そんな演奏を聴くと「この人、アタマ、大丈夫か?」と思ってしまう。

もっとも、それらの著作を読んだ上で、それでも過度に甘ったるい演奏表現をするのならばそれは演奏家の解釈であり、それ以上こちらが立ち入ることではない。だが演奏を聴く限り、どうもそうしたプロセスなしに演奏しているのではないかと感じることがしばしばある。

ロマン派の作品というのは、ある意味で演奏するのは簡単だ。それは奏法は別にして、表現の規範がないようなものだからである。どんなにカッチリ弾いても、激甘で弾いてもそれはロマン派の作品として大抵許される。不思議だ。

表現の許容範囲が広いといえば聞こえはいい。だが、実はそこにこそ大きな表現上の問題、すなわち見落とされている問題があるのではないか。ロマン派の時代に流れていた叙情というものを…。その叙情をイメージできず、ただ感情のおもむくままに弾いたってそんな演奏にロマンティシズムが感じられないのは当然なのである。

そう考えると、現代の我々がロマン派音楽を適切に表現するためには単なる感覚や思い込みでは足りないということになる。むしろ当時の文化全体のことをよく学ばなければロマン派の姿は見えてこない。形式という規範が曖昧な時代であっただけに、ロマン派を表現することは、矛盾するようだが、かえって理知的でなければならないのかもしれない。
コメント