面倒な原稿が終わったので、気分転換に戸棚を整理した。すると昔の写真が出てきた。昔といってもセピア色した大昔のものではない。15年ほど前の合宿の写真である。
懐かしい顔ぶれだ。なかにはもう亡くなった先生なども写っている。いろいろな記憶が浮かんで来た。
ふと目に留めた1枚の写真があった。とある通路で2人の先生とワシが歩いているのだ。それを後ろから撮ったものである。
よく「背中に哀愁が漂う」などという表現をするが、この写真を見ると本当に背中には表情があるんだなと気づく。もっとも、この3人の背中に哀愁は漂っていない。その代わり、「お疲れの背中」「楽しそうな背中」「元気な背中」が写っていた。
もちろんそう思うのはワシの主観である。なんとなくそのように見えただけなのかもしれない。でも、やはり背中には何らかの「表情」はある。
困るのは自分の背中がその場で確認できないこと。仮に鏡があったとしても、そこに写っているのはポーズを決めている自分である。何も意識していない無防備な姿を自分で見ることはできない。
この写真がとらえた「表情」は、おそらく3人の真実の姿なのだろうと思う。
懐かしい顔ぶれだ。なかにはもう亡くなった先生なども写っている。いろいろな記憶が浮かんで来た。
ふと目に留めた1枚の写真があった。とある通路で2人の先生とワシが歩いているのだ。それを後ろから撮ったものである。
よく「背中に哀愁が漂う」などという表現をするが、この写真を見ると本当に背中には表情があるんだなと気づく。もっとも、この3人の背中に哀愁は漂っていない。その代わり、「お疲れの背中」「楽しそうな背中」「元気な背中」が写っていた。
もちろんそう思うのはワシの主観である。なんとなくそのように見えただけなのかもしれない。でも、やはり背中には何らかの「表情」はある。
困るのは自分の背中がその場で確認できないこと。仮に鏡があったとしても、そこに写っているのはポーズを決めている自分である。何も意識していない無防備な姿を自分で見ることはできない。
この写真がとらえた「表情」は、おそらく3人の真実の姿なのだろうと思う。