ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

学歴にこだわる老人

2008-02-13 06:23:18 | 脳みその日常
先日行った飲み会でのこと。あるジイさんが「お話をしたいのですが」と近づいてきた。その集まりは年寄りだらけなので、ワシは専ら聞き役。人生の先輩たちからは示唆に富んだ話が聞けるから聞き役は嫌いではない。

ところがそのジイさんは違った。話がひとつ終わるごとに「ひとこと」があったのだ。その「ひとこと」とは要するに学歴に対するコンプレックスみたいなこと。

「まあね、私はアナタと違って工業高校卒ですから…」
「いえいえ、そんなことはここでは関係ないですよ。楽しく呑みましょうよ」

言うまでもないが、このジイさんはすでに70を越えている。年金生活の人が今更学歴コンプレックスをもつ必要はないと思うのだが。しかし、その「ひとこと」には続きがある。サラリーマン時代に高卒ということで嫌な経験をしたので、定年後に通信教育で学士の資格を取ったのだとか。ということは、この人、学歴としては大卒ではないか。

なのに、なぜ今もなお「自分は高卒ですから」などと言うのだろう。通信制で大学を出ることはフツーに大学を卒業するよりも精神的な意味で大変と聞いたことがある。となれば、むしろ胸を張って「大卒です」と言ってもいいのに…。不思議な人だなあと思いながら何度も「ひとこと」を聞いていた。

そのうち、あることに気づく。どんな学歴であろうとそれにコンプレックスを感じていない人は、そもそも進んで自らの学歴のことなど言わんよな、と。若い頃なら権威主義の人間だと自分の出身校をさり気なく出して自慢する奴もいるだろう。

でも、現役を退いたら学歴なんてクソの役にも立たない。周囲だって、ある人がどんなに素晴らしい学歴をもっていようが、その人をひとりの年寄りとしか見ない。だからイイ歳をして学歴云々の話をするのは無意味なのだ。そんなことはこのジイさんだってわかってるだろうに。

それでも他人に話すのはどういうことなのか。推測するに、この人はある種のナルシストなのだろう。「自分の歩んで来た人生はこれだけ屈辱的で大変だった。でも自分はそれに負けまいと頑張って努力したのです」と周囲に認めてもらいたいのだと思う。

気持ちはわからなくもない。今の時代と違ってこの人の青春時代の「大学」には良い意味での権威があった。この権威は現在のような単なる看板ではなく、実質が伴っていたのだ。ワシの目からみても当時の大学生の教養は今思い出してもスゴイなあと思う。文系の学生であっても理系の一通りのことは知っていたし、理系の学生だって文学の素養があった(もちろんそうでない学生もいたのだろうけど)。

いずれにしても当時と今とでは大学生が行なう勉強の絶対量は格段に違う。だから当時の社会が高卒と大卒の間に明確なラインをつけたのも頷ける。給料や昇進の差が歴然としていたのには当然である(それが良いか悪いかは別の問題だが)。

そうした時代にあって家の事情から工業高校に進学せざるを得なかったこの人。おそらく社会に出てから筆舌に尽くせぬ辛酸を嘗めたことだろう。現役時代の悔しい思いが定年後の学士取得へのエネルギーになったのは間違いない。

頑張ったことは認めてあげたいし、素晴らしいと思う。でもさ、その苦労と努力は他人に言っちゃあいけないんだよ。それを口にした瞬間、相手は「コイツ、ちいせえ奴だ」と思われちゃうんだよな。「なんでそんなことを今更言うんだ?」と。「ワシは過去のアナタではなく今のアナタを見ているんですよ」と。だから昔話ならともかく、これは言うべきことじゃないのだ。

ケツの青いワシからすれば高齢者は堂々としていて欲しい。頼れる存在であって欲しいと思う。実際には頼りなくたっていい。虚勢でもいいから泰然自若の構えでいてもらいたい。そうでないと年少者からナメられてしまうのだ。

その論からするとワシも他人事ではいられない。若年の後輩たちに笑われないよう今から修行しないとな…。「人のふり見て我がふり直せ」である。
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