ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

時代遅れのレンカーども

2007-04-19 05:43:37 | 脳みその日常
都知事選挙が終わったと思ったら、今度は議員選挙。選挙そのものを否定するつもりは毛頭ない。しかし選挙活動の仕方があまりにも古すぎやしませんかね。

朝は8時、ワシがウトウトし始める頃、選挙カーは活動を開始。こちらが夢見心地になろうと楽しみにしているのに、彼らは拡声器という暴力でワシの眠りをインターセプトするからたまらん。

もちろん彼らは選挙法に基づいて活動しているのだから法的に問題はない。こちらのライフ・スタイルを変更すれば済むこと。眠りを妨げられる件に関しては今度の日曜日までのことだから我慢しよう。問題はその活動方法である。

きっと誰もが感じているに違いないが、候補者の名前を連呼することにどんな意味があるというのだろうか。「●●です! ●●は頑張っております! どうか●●に清き一票を!」って、アンタのことなんてこれっぽっちも知らんて。名前を連呼されたって、ただ五月蝿いだけだっての。敢えて選挙民にケンカを売るとはいい度胸だな。これって選挙にとっては逆効果じゃないの?

連呼なんてするより、自分のポリシーをアピールしたほうが理解されるんじゃないの? 昔から選挙といえば拡声器で名前を連呼するのが当たり前となっている。でもさ、投票する側からすれば迷惑な連呼を聞かされたうえに、「清き一票を!」ぬぁんて言われても「なに寝言言うとんじゃ、ゴラァ!」となるわな。そもそもアンタはどうしたいのさ。ポリシーもわからん奴に投票なんぞできるわけがないだろ。

候補者は選挙民の心をつかむ工夫をしないとダメだね。「ん? アイツ、なんだかやってくれそうじゃないか」って思わせるある種のパフォーマンスがあってもいいんじゃないか。旧態依然の選挙活動をやって確実に当選できる保証はどこにもない。ならば違う切り口ではどうだろうかとなぜ考えないのだろうか。人はそうやって学んでいくと思うのだが。

だからといって奇抜なことをすればよいというものじゃない。たとえばアートもどきなパフォーマンスをしても票には繋がらない。単に「変わり者」というレッテルを貼られるだけだ。

今の時代、上から目線の高圧的な態度を取る政治家は歓迎されない。閑静な住宅地のなかを音量にモノをいわせて名前だけを連呼しても意味がないのだ。ほとんどの選挙民は民意を実現してくれそうな人を選ぶ。ところが候補者の側はそれがわかっていない。

候補者がまず考えなければならないのは、選挙民が何を求めているのかを察知すること。そして、その解決のためにはどうするべきなのかという考える力を持つこと。そうしたことを踏まえて自らの案をアピールすればよい。そのほうが単に名前を連呼するよりよっぽど説得力がある。

選挙民はバカじゃない。妥当な政策とそうでないものを嗅ぎ分ける力はもっている。連呼する者(レンカーと呼んでやろう)はそのあたりをもっと考えるべきなのだ。レンカーは無駄に声を張り上げる必要はない。そんなところにエネルギーを費やすのでなく、思考することに注力しなさいよ。

ワシはそんなスタンスだから配布される選挙公報を熟読する。そこに書いてあるスペックから候補者をある程度判断できるからだ。本当はもっと詳細な情報が欲しいところだけどね。

あー、もう数時間もすれば、またレンカーたちがやってくる。憂鬱だな…。
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